今回からは

「川端義明のアナウンサー教室」と命名して書きます。


まず最新の情報から

私の後輩のアナからの情報では

公共放送のアナウンサー採用はこのところ

男女半々らしい。

ちなみに私が入局した1975年は男20女性2の22人。女性にとっては極めて狭き門だった。

(この年、女性アナは櫻井洋子と鈴木規子)



昭和50年入局アナ

上研修生のリクレーション

下世田谷区砧の研修所

での風景。

わかりますか?

後の大物アナばかり。

しかも

未確認ですが、

今年度からは、

アナ単独採用でなく、

他の職種と一緒の 一括採用になったとか。

実はアナウンサーの歴史の中ではそうした形を

模索したこともあった,

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 NHKのアナウンサーが試練に見舞われていたのが昭和50年代の終わり頃だ。

当時報道局長であった、著名なキャスターとして有名な、磯村尚徳氏が、「取材の出来ない職種である、アナウンサーは要らない。」と発言したと伝えられた。この発言が本当にあったかどうか今もって事実はわからないが、NHKのアナウンサー集団に大きな動揺をもたらしたことは間違いない。事実、昭和59年入局のアナンサーはほとんどいない。採用を控えたようなのだ。

ほぼ同時期(昭和59年)に朝の「ニュースワイド」のメーンキャスターをされていた森本毅郎アナウンサーがNHKをお辞めになっている。

当時報道局は、夜のNC9のキャスターの木村太郎さんがNHKの看板で、

報道局長の磯村さんの下、海外ウイークリーキャスターの平野次郎さんとの「太郎 次郎」コンビが、島会長お気に入りで、NHK報道を背負っていたのだ。

 その頃の「アナウンス研究会」という名のアナウンサー研修で講師役の森本さんが、私たち若手に向かって「今、アナウンサーは、報道ではなんとなく居住まいの悪い感じになっている。」と発言されたのを今でも忘れない。

全国の若手アナウンサーのリーダー役でもあった森本さんの退職はアナウンサー集団に大変なショックを与えたことだけは確かである。

 いずれにせよ、「取材の出来るアナウンサー」を養成したいというのが、切実な組織願望になったことは間違いない。私の「報道局特報部兼務」もこうした一環としての動きであったようだ。昭和60年夏、報道局の中に「特報部」という選り抜き集団が結成された直後から、「アナウンサーも」という組織的願望があったようだが、2年後の87年になってようやく実現。私と46年入局の井上俊治アナが、特報部兼務となって、「G1グループ」と言われた特ダネを取るのが目的の精鋭集団に配属された。特報部へ行く際、アナウンス室からは、「当面画面に顔を出すことはこだわらず、特報部員として取材に精励せよ!」との言葉を背に、兼務とは言え、二度と帰らないつもりでアナウンス室を後にしたのだ。私と井上アナは、社会特報部の遊軍グループの仕事をしながら、来る日も来る日も「特ダネ」を求めてネタ探しに明け暮れることになった。

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今から始まるらしい「一括採用」が

存在感ある、優れたアナウンサーを作る方向に向かうことを祈っているが、アナという職種の専門性がきちんと維持されるのか、心配している。

今アナウンサーに必要なのは

正確な発音、発生などに裏打ちされた、

卓越した表現能力であり、音声表現を武器とする優れた、ジャーナリストなのだが。

大丈夫だろうか⁉️

個人の努力を超えた、手間も時間もかかる育成なのだが。

大丈夫だろうか⁉️

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