昭和58年2月18日。
入院中の京都の病院て亡くなりました。
53歳。
体調壊して入院していたが、亡くなる直前は
多臓器不全となり、肝臓は、体一杯に膨らんでいたそうです。
明け方容体急変。
駆けつけた父と弟も間に合わず、
家族誰にも見取られず
逝ってしまったそうです。
当時僕はすでにNHKに在籍。
宇都宮局にいました。
その日は世田谷区砧の研修所にいました。
生まれつきの心臓弁膜症で、後半生は入退院を繰り返し、僕の中学の入学式にもこられませんでした。
僕自身が53歳になった時、こんなに若くしてなくなったんだと、その早い死に思いを馳せました。
コロナ禍で京都のお墓に行けないので、仏壇に、好物のビーフシチューを供えてやります。
沢山ある、母の思い出の中で、朝ドラを見て
鮮明に蘇った思い出があります。
実は僕が小学校四年生の時、
近所に東映京都撮影所に出入りしていた、子役のプロダクションの方がいて、その方の勧めで
東映の映画に出ることになり、太秦の東映京都撮影所に通うことになったのです。
東映京都撮影所玄関
当時の東映京都撮影所は広大で東映城と呼ばれたお城や江戸の街を再現したオープンセットもあった。
印象に残ったのは、広くて明るい撮影所内のレストラン。
有名な俳優さんたちが食事をしている風景は、映画好きの母を大いに喜ばせた。
母は、大川橋蔵さんのファンで、ある時、橋蔵さんが食事をしている姿を見つけ、近くのテーブルでカレーライスを食べたりした。
「子役」と言っても、エキストラに毛の生えた程度で、セリフもあるかなしか。
「オイラお腹が減ったよ」程度。
それでも母は大喜びでした。
嫌だったのは「かつら」
かつらをつける前に頭に金属の網のようなものをつけるのだが、これが頭を締め付けて、痛かったのを覚えている。
当時、東山区泉涌寺というところに住んでいたが、太秦は遠い。
母は10歳の僕を連れて、多分バスや電車に乗り継いで太秦へ通ったのだ。
学校にどう説明したのか?休んで行ったなあ。
帷子ノ辻という駅から
商店街(大映通りと言ったかな)を抜けると、撮影所の正門があった気がする。
多分、母は、僕に、俳優になって欲しかったんじゃないかな?
それは無理だったが、僕がNHKのアナウンサーに採用された時は、「まあええか!」で
大喜びだった。
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