昭和43年から45年まで

京都市立日吉ヶ丘高等学校に在学した。

当時の京都の公立高校は、

当時の蜷川知事の「十五の春は泣かせない。」と言う信念で、府立 市立の高校の入学を、

全て同じ試験 同じ選抜方法で行い、合格者を、

生徒の住む地域を勘案しながら、各高校に振り分ける と言う大学区制度を取り入れた。

合格者の分布によっては、受験した希望の高校ではなく、隣の高校に行くことになった生徒もいたが、とにかく合格水準にある生徒は、どこかの公立高校に入学出来ることになる。

知事の信念通り、十五の春は泣かせなかったわけだ。

入学してきた生徒の中には、「〇〇高校に行きたかったのに、日吉ヶ丘に来てしもた。」と文句たらたらの奴もいたが。

さて

こうして日吉ヶ丘に集まった生徒をまっていたのは、『自主独立」と言う校訓の下、

自由で伸びやかな高校生活が待っていた。

特に日吉ヶ丘はこの点徹底していて、先生との距離感も極めて近く、友達教師とも言えた。

まず第一

制服がなかった。

当時京都の公立高校は

ほとんどが、自由服だった。

あの頃どんな格好で通学していたか?ほとんど記憶げないが、学校へ行くからと、特にいい服着た記憶がないから、多分、家にいる時のような格好で通学していたんじゃないかな?

そんな中で、わざわざ、詰襟の学生服着てくる奴もいた。しかも年中。夏も暑苦しい黒服着ていたなあ!

言い分は「毎日、何を着ていくか、かんがえなくていいから。」一理あった。

授業は、大学のような、講座制。

生徒は科目毎に鞄持って、その講座の教室へ移動。一応、ホームルームはあったが、僕の記憶では、ホームルームの教室に全員集まるのは、週に一度くらい。

担任の先生も週に一度の面会。

不思議な光景だが、大学に行って

高校とおなじやん と思った。

クラブ活動も盛んだった。

顧問はいるが、あんまり顔あわせなかったなあ。あくまで、生徒の自主に任されていた。

僕は、放送部に。


放送部のみんなと。

前列真ん中が僕。

学園祭か楽しみだった。

ある年は、ギターマンドリン部と共同で

その当時流行りの「サテライトスタジオ」やったりした。

教室の廊下に復調作り、その上にスタジオ。教室の窓越しに客の生徒の前でDJ,

リクエスト曲かけたり、ギターの生演奏やったり

ワイワイガヤガヤ。楽しかったなあ。

その時のギターマンドリン部の部長とは今も付き合いがある。

当時のギタマンの部長三浦くんと

同窓会で久しぶりに再会。

いい時代 いい学校だったなあ。


最近大学の後輩が、近くに行った際、

我が母校、日吉ヶ丘高校の写真を撮ってくれた。

正門らしい。

実は、当時は、「正門」などなく、

それどころか、塀もなかった⁉︎

出入り自由。



高校時代の親友と。

僕らは、当時「自由が丘」と読んでいた。

先生もユニークな方が多かった。

それはまたべつの機会に。

############################