井川良久アナウンサー


私の新人研修の先生。私のアナウンサー生活に

もっとも大きな影響を与えた方です。


その年三月末まで

当時のNHK総合テレビの朝ワイド番組「スタジオ102」のメーンキャスター。

四月から、我々昭和50年入局の新人アナの主任指導者として、毎日毎日我々22人のヒヨコに厳しい指導をされました。


その先生ぶり、怖かったこと怖かったこと。

授業中に無駄話なんかしようものならすぐ

チョークが飛んできました。

我々22人の新人には、二人の女性アナもいましたが、井川先生容赦なく、桜井洋子にチョークが飛んだこともありました。


我々の世代はまだ多くの喫煙者がいましたが、ある日そのうちの一人が、井川さんに、

アナウンサーになったから、喉のためにもタバコはやめた方がいいんでしょうね?と聞いたところ、井川さん一言「ケツのアナからヤニが出るわけでもないだろう。(関係ない!)」

まあ、声にいいわけではないでしょうが、『そんなことは本質ではない』と仰りたかったのではないかと思いました。

どこまでも"本質論"でした。


陸軍幼年学校から早稲田大学という変わった経歴で、昭和30年入局。我々のちょうど20年先輩。

はっきり言って「右翼」でした。

酒の席ではときおり、「おい!日本は戦争に負けたか?」と。

聞かれた奴は答えようもありません。


新人みんなで、放送センターのニューススタジオを見学に行き、七時のニュースの本番を

見ることが出来ました。

ニュースの神様と言われた、平光淳之介アナウンサーの生放送は新人には刺激的でした。右手を斜め前に出して伝える独特のスタイルはカッコ良かったなあ!

本番が終わった後、井川さんが囁くような低い声で、『この中から7時のニュースを担当する奴が出るかなあ』

ですから後になって私が、七時のニュース のキャスターになった時は、井川さん大喜びされたと後に奥様から聞きました。

その後井川さんは、沖縄局長に就任されました。

その井川さんの跡を追うように、私も現役のアナウンサーから沖縄局長となりますが、この時も井川さん大変喜ばれたと、

やはり奥様から聞きました。


私が局長時代、御夫婦で沖縄をお訪ねになり、

私の手配で、その当時の職員の存命者を囲んで宴を催した時の井川さんの嬉しそうな顔。

今も忘れることができません。

それが最後に見た井川さんでした。


私が室蘭局という、北海道の小さな局に赴任することになった時、私がよほど不安な顔をしていたのか(井川さんは新人研修生が毎日書く日記に添削されていたのですが)

こう、書いていただきました。

『人間(じんかん)至る所青山あり。』と。

今も私の座右の銘です。


その後アナウンサーとして仕事をしていても、

いつもあの低い声が聞こえてくるような気がしたものです。

こんなことも。

私が選挙を担当することになった頃でした。

アナ室で一生懸命資料を作っていました。

井川さん一言「おい、皆がみているところで

大っぴらに資料なんかつくるんじゃない!」

「隠れてやれ!」井川さんの美学だたようです。

そういう方でした。今はもうあのタイプのアナウンサーはいないなあ。