夜7時のニュースは、NHKのリードニュースのメインストリームで、
NHKのアナウンサーになった人間は一度はやりたいという番組。
私の入局した昭和50年には平光淳之介アナや荒川修アナが担当。
昭和50年にNHKに入った同期アナウンサーでは、一体誰が「19時」を担当することになるかと思ったものである。
まして19時ニュース最後のキャスターになるとは夢にも思わなかった。
実はこの頃から「19時台に大型のニュース番組を!」という声はNHKの報道局内にあったようだが、一方で、「21時台は記者がアンカーを務めるキャスターニュースだから、19時台は、今のまま正統派のリードニュースを続けるべき。」
との声も多かったと聞いていた。
1992年(平成4年)年末頃から報道局でも
19時台の大型ニュース番組の話がにわかに現実味を帯びてきた。
最大の関心は誰がキャスターをやるのかという点にあった。
大方の見方は、「19時ニュースで人気のあった松平さんだろう。」という点で一致していた。
私自身も交代かと思っていた。
それが、本当にスタート直前の1993年(平成5年)2月頃に突然「お前やれ!」となって、「ニュース7プロジェクト」の話し合いに参加し始めたのだ。
プロジェクトルームは熱気に溢れていた。
みんなが「全く新たな、わかりやすいニュース番組」を作ろうと燃えていた。
特に「ニュースの幅」についてNHKらしい「芸能ニュース」があってもいいのではないかという議論もあったことは、この番組対する局内の期待が大きかったことを裏付ける話だ。
1993年(平成5年)4月5日
57分という大型のニュース番組「NHKニュース7」はスタートした!
キャスターは私と、同期の桜井洋子アナ。スポーツは小平桂子アネット嬢。気象キャスターは気象協会の 高田斎さんという万全の布陣でのスタートであった。
⭐️28年前。若かったなあ。思えばこの頃がピーク
だったなあ。なんでもうまくいった‼️
新番組「ニュース7」のキャッチフレーズは「ニュースをわかりやすくしました!」というものだった。
とにかく徹底的に「噛み砕く」「わかりやすく説明する。」
というコンセプトでスタート。
当初の「売り」として今ニュースの核心にいる人物に果敢にインタビューするということにした。
あまりテレビに登場しない人物にも果敢にチャレンジしてみようとというものだった。
このインタビューで最も印象的だったのは、
政界のご意見番と言われていた「後藤田正晴氏」へのインタビューだった。
「ニュース7」がスタートした平成5年は、自民党最後の総理大臣宮澤喜一氏が政治改革を迫られていた時期なのだ。そして挙句、後に「嘘つき解散」と呼ばれる55年体制の崩壊につながる解散が断行された年でもある。
こうした混沌状況の中で「政界ご意見番」は何を言うのかという大きな興味があった。
その、後藤田さんが「ニュース7」に登場したことは当時の政治状況の中では極めて大きな意味があったと思う。
「ニュース7」は、昼のニュース放送終了後の反省会から始まる。
ニュースセンターの大部屋に円陣を組んで
編集責任者 キャスター、各取材部デスクが集まり、まず昼の総括を行い、
最後にこの後の出稿予定を各部から報告させ、ニュース7の編責(編集責任者)が、夜の方針を開陳する。
これがNHKの夜のニュースのスタートなのだ。
キャスターはその日の編責の方針に従って直ちに準備に入る。
とりあえずは、各部から出ている取材予定の内容の確認と関連する情報の収集にあたる。
ニュースセンターに配備された端末を操作することで、そのニュースの過去の原稿を見ることも出来る。
NHKの原稿だけではない。共同通信他通信社の原稿も報道端末で見ることができる。もちろん海外の通信社ののが原文もすぐさま見られるのだ。何よりも取材部がNCスタジオに隣接しているから、各部のデスクや専門記者から直接、これまでの経緯や予備情報のレクチャーを受けることも極めて容易である。
そうこうしている間に新たな事件事故が発生し、その「新ネタ」のウォッチもしながらの作業になる。
放送直前までほとんど休みなく、「勉強」や「情報収集」を続けて行くのだ。
情報の洪水の中で泳ぎ回るこうした作業は極めて大きな精神疲労を伴う仕事であることをご理解いただけるだろうか!とにかく疲れるのだ。
アンカーパーソンに必要なのは何よりもこうした情報に晒される「疲労」に耐えられる、強い精神力だと思う。
そういう作業を重ねながらそのニュースを自分の「肉体化」するというのが正直な感じなのだ。そこまでしないと、日々刻々変わるニュースを自分の肉体を通して「伝える」ことなんか出来やしない、というのが、その当時の私のアンカーとしての実感だった!
もちろんその前提としてキャスターになる前の自らの取材体験という「基礎」がないと何の意味もないのだが。幸い私自身は特報部兼務時代も含めて「現場経験」には十分な自信を持っていたし、何よりもニュース7のスタッフの多くがそのことを認識してくれていた。
本番で、整然と書かれた「原稿」をスラスラ「読んでいる」としか理解されないことが、この、アンカーという仕事の不幸な側面だ。
アンカーパーソンは、森羅万象を扱うニュースの達人として「知らないことはない。」というのが前提になっているから、いつも「自分の知らないことが起きたらどうしようか。」という恐怖に晒されている。だから「学習」する。山のように読書する。正直言えば、現役だったあの頃ほど本を読んだことはなかった。
恐怖に駆られて読書していたから、読書の楽しみなんか全くなかった!
こうした日々の「蓄積」の結果として、ひとたび「突発ニュース」が入ってくれば、直ちにスタジオに飛び込んで、ほとんど原稿もないまま、いわば、アドリブでニュースを転がしていけるのだ。
今振り返ってみれば、「ジャーナリストたらん」という「謙虚さ」が足りなかった気がする。「謙虚」に人に会い、丁寧な取材を続けることでしか、
ジャーナリストとしての道はないという姿勢が必要だったと反省している。
しかしアンカーには残念ながら、その時間がない。
そこで起こりうる三つくらいのテーマを想定して空いた時間に集中的に知識を吸収しておく。それが精一杯だった。
とにかく1993年は政界激動の一年で細川さんが総理になったというのも大きな節目でもあったが、ビッグニュースが連続し、NHK期待の大型ニュース番組が登場するにふさわしい年であったと言えるかもしれない。
私が去った後、いつのまにか、30分に縮小され、
当たり前のニュース番組になったのは斬鬼に堪えない。
せめて、当初の「熱気」を取り戻して欲しい。
とかつての老いたアンカーは思うのだ⁉️
未だにわからないのは、
何故僕が選ばれたのかということ。
まあプロですから、やれと言われれば
「やります。」としかいえなかったのです。