わたしには

一年に三日、心騒ぐ日がある

 

117

  阪神淡路大震災は1995(平成7)117日だったのだ。毎年この日は神戸では祈りの一日が始まる。私も心騒ぐ日が始まる。三ノ宮駅前の座屈した神戸新聞ビルや、鳥居が完全に倒れた生田神社。そして何よりも象徴的だったのは阪神高速の高架が見事におちてしまっていたこと。日本の都市はこんなにも脆弱だったのか!「6430人を超える人々は何故死なねばならなかったのか?」をテーマに、NHKスペシャル「阪神大震災」がスタート。

以来毎月毎月神戸に通い続けたのは、1995年から1996年にかけてだった。焼け野原となった長田でのこと。家に火が付き、柱の下敷きになって動けない父に、「早く逃げろ!」と促されて泣く泣く「見捨てて」逃げたという話を涙ながらに私にしてくれた、あのお嬢さんは今どうしておられるだろうか。被災地は「悲しさ」と「悔しさ」で満ち満ちていた。人々のあの「悲しさ」「悔しさ」だけはどうしても忘れることが出来ない。ジャーナリストとして出来ることは何か、真剣に考えた1年だった。


623

沖縄を離れて間も無く15年経つが、その後も三ヶ月に一度は那覇に行っている。今回は那覇マラソンに出た先月に続いて二ヶ月連続の沖縄行きとなった。

実は那覇市のお隣に浦添市という町があるが、ここに2004年、国内で五番目に出来た国立劇場がある。この「国立劇場おきなわ」が開場10年を迎えその記念式典に招待されたのだ。こういう機会は本当に嬉しい!久しぶりに沖縄の知己に会える!

 かつての沖縄勤務者の間には、「沖縄病」という言葉がある。とにかく沖縄のことが気になって仕方がない。しばらく沖縄に行かないと沖縄風に言えば「ワジワジする。」私なんかは典型的な「沖縄病患者」である。仕事に行き詰まったり、少しストレスが溜まってくると、何故か沖縄に行きなくなる。実際にすぐ飛行機の特典航空券に空席がないか調べて、あればとにかく出かけるのだ!今回のように行く「理由」があれば申し分ない。ここ数年計画して達成できない「沖縄行き」がある。623日の「沖縄慰霊の日」に沖縄を訪れて、毎年この日に行われる、戦前の社団法人NHK沖縄放送局の、沖縄戦での犠牲者を追悼する式典に参列したいのだ。局長時代は「主宰者」であったので当然列席したがその後出ていないのだ。623日は「沖縄慰霊の日」であり、地上戦で多くの県民の犠牲者の出た「沖縄戦」が終わった日となった。される。具体的には、日本軍の組織的な抵抗の終わった日とされている。昭和20年のこの日、上陸した米軍と日本軍の間で沖縄県民を巻き込んだ熾烈な地上戦がこの小さな島で展開していたが、そのさなかに司令官の牛島中将が自決をした日なのである。この日を「終戦」とすることには大いなる異論がある。実際島のあちこちでは、以後日本の無条件降伏後の9月から頃まで残存した日本軍のゲリラ戦が行われていた。県民の犠牲も引き続き、続いていたのだ。それにしても623日という沖縄の人々にとって極めて重要な「慰霊の日」が、本土マスコミには10年前までは「普通のニュース扱い」されて、NHKでもその日のニュースのだ一項目扱いでしかなかった。広島の86日や長崎の89日のように、現地から生中継の「特別番組」に何故出来ないのか、するべきだと強く感じて、局長時代は毎年のように役員や編成局長に訴えたものだ。結局局長在任中は、「お昼のニュース」の中で分厚く長く扱ってもらうことにしていたが、やはり毎年恒例の「特別番組」にしたいというのが私の望みだった。その後、私の次の局長の代になってようやくニュース扱いでなく、毎年恒例の生中継特別放送として編成するようになった。あまり知られていなかった、623日という日を全国のみなさんに知っていただき、沖縄への国民の真の理解を深めることこそ、マスコミを含めて沖縄に関わる全ての人がやるべきことだと思う。沖縄戦では20万人という多くの無辜の県民が犠牲になったが、623日に自決した牛島中将でなく、もう一人、海軍の太田中将も自決されているが、この時太田中将が本土の海軍次官に宛てた電文は、如何に沖縄県民の犠牲が大きかったかを物語るものである。以下の一文は有名になったが読み返すたびに心を打つものがある。

 沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

沖縄問題を考える時に思い出すべき一文である。


812

 117日、623日とともに、私が心騒ぐ日が812日である。

昭和60(1985)812日、私が東京アナウンス室に異動着任した3日後に起きたのが、日本航空123便ジャンボ機墜落事故であった。520人が亡くなるという稀有な航空機事故だが、東京での初仕事だったこの事故の取材がその後の私の仕事の出発点だった。事故機には様々な人々が乗り合わせた。歌手の坂本九さんや大相撲の清国関の奥様もいらっしゃつた。その中に美谷島健くんという小学生が一人で乗っていた。事故から何日かたった頃、事故現場の御巣鷹の尾根まで5時間かけて山登りして着いた。それが私が墜落現場にたった最初だったが、その壮絶で惨たらしい現場に改めて航空機事故の恐ろしさを実感した。

その現場に、紙で作られた「鯉のぼり」が一本建てられていたのだ。その場にいた警察関係者に聞いたところ、被害者の一人、美谷島 健君のお母さんがこの墜落現場まで登ってきて、一人亡くなった我が子を思い立てたものだというのだ。自己現場に翻る小さな鯉のぼり。涙なしでは見られない光景であった。一瞬にして多くの方の命が終わってしまう、航空機事故の悲惨さを一本の鯉のぼりが象徴していた。その後美谷島さん(健君のお母さん)にお会いすることは叶わなかったが、お電話でお話する機会があって「鯉のぼり」の話を確認した。お母さんは、当然ながら、何故我が子を一人で飛行機に乗せたのか、事故以来後悔の日々が続いているということだった。辛い話だった。だから、航空会社の人たちはもちろん、日本人として、この812日という日を永く記憶にとどめておく必要があると思う。沖縄には元南西航空といった地元資本の航空会社があり、その後JTA日本トランスオーシャン航空という名でJALの子会社として、離島便を中心に営業している小さいが非常にしっかりした航空会社があるが、ここの職員は毎年812日には、空の安全を願って御巣鷹の尾根に慰霊登山を続けている。事故の当事者の関連会社としては当たり前かもしれないが、立派な会社だと思う。局長時代この会社の社長をされていた市ノ沢さんという方は元JALの広報の職員であった123便の事故でけ。現場で報道各社の対応をされていた方であった。初めてお顔を拝見した時から何処かでお会いしている気がしていたが、引き受けたこの会社の職員研修での講話の際、812の取材経験の話をしたら社長の方から「実は私もあの現場にいました。」ということになり、初めて、我々が随分強く対応に注文を付けたりして、いじめた、あの時のJALの広報の方だったと気づいた。

私も若かった。事故の悲惨さ故、怒りをJALにぶつけるような乱暴な取材をしたと後悔している。とにかく812日は落ち着かない。