1988年、五輪の韓国から日本に帰国してしばらくは、依然、韓国の「ハングル酔い」に見舞われながらだらだら仕事をしていたが、そうした日々も長くは続かなかった。

9月19日昭和天皇が黄疸症状を示して吐血、宮内庁病院に運ばれた。これ以後「ご病状報道」が始まり、昭和の終わりの始まりとなった。実は私はそれ以前から局内の「昭和史プロ」のメンバーで、「その日」に備えてさまざまな準備をする一方、そのプロセスの中で昭和天皇の弟君の高松宮の薨去から葬儀の報道も担当しており準備万端ではあったが、天皇がお倒れになったという一報には些か泡を食った。皇居へ急行せよとの命で、皇居坂下門に。ところが、宮内庁クラブ記者証を持つ者以外は一歩も入れないという皇宮警察の硬い警備に阻まれ、中継車を引き連れた多くの報道陣が中に入れず、門前で右往左往していたのだ。しかし私はNHKの皇室プロのメンバーであり宮内記者会の記者証を持っていたので中へ!

その日から宮内庁クラブは常駐記者に加えて臨時の記者証を持つ多くの記者やアナウンサーでごった返すことになり、来る日も来る日も天皇のご病状を伝える放送が宮内庁庁舎前から繰り返されることになった。NHKは三人のアナウンサーを現場の放送担当とし、私も三日に一回、昼から深夜まで宮内庁の発表を元に放送を続けた。午前零時皇居を出てすぐ近くのホテルに宿泊。早朝6時にまた宮内庁に出勤、その日も正午に次のアナと交代という輪番体制。担当記者と一緒に宮内庁のブリーフィングを聞いて天皇のご病状を確認、ニュース毎時間に放送、という日が続いた。

皇居張り番はつらいことばかりではなかった。

夏から秋へそして冬へと、東京のサンクチュアリである皇居内の四季をこの目で見るという貴重な体験もした。

昭和天皇のお倒れになった秋初めから翌年崩御されるまで、いわば皇居の秋から冬を見てきたわけで、蓮池の季節の移り変わりや、都内とは思えない紅葉のすばらしさに、不敬ながら日本のサンクチュアリの四季を楽しませて貰った。目の前を「和リス」が行きかうこともたびたびで、皇居が江戸時代の自然をそのまま残している現実を目の当たりにした。昭和天皇はかねがね「雑草という草はない。何でもそのまま残せ。」と仰っていたというが、見事な都会のオワシスに大感激し、そこで行われる些か時代離れした日常(例えば各国大使が交代すると信任状奉呈のため、儀装馬車で皇居にやってくる!)も見る機会を与えられ、貴重な経験となった。結局翌年89年1月の昭和天皇の崩御、2月の大喪の礼、翌翌年1990年11月の即位の礼、大嘗祭の儀まで一年以上皇室取材と放送に携わることになった。天皇の代替わりという一生に一度あるかどうかの事態に際し、そもそも日本の皇室とは何か、その制度やしきたりなど、山のような資料や専門家への取材で猛勉強する日々が続いた。この経験で私はひとつのことを系統的に学習することが、ともすれば日日の事件事故に明け暮れるだけのジャーナリストにとって如何に重要なことかを、深く知ることになる。

 

 そしてついに「その日」がやってきた。

   その日1月7日は奇しくも土曜日、私がモーニングワイドを担当する日であり、新年に入って最初の放送日であった。実は前年暮れ、メーンキャスターの宮崎緑さんが産休で降板。この日から私の相方はアナウンサーの黒田あゆみさんが務めることになっていた。いつものように朝4時前には局に到着、打ち合わせの後、眠い目をこすりながらニュース原稿の下読みを開始。五時過ぎだったか、社会部に「天皇の侍医高木氏が自宅を出た。」という一報が入り、ニュースセンターは突如騒然となった。「その日」が来たのだろうか?体全体が緊張してくる。前日の宮内庁発表では病状は比較的落ち着いているとのことだったが。

その後出た高木侍医執筆の「昭和天皇最後の百十一日」によれば、高木さんが代々木の自宅を出たのは正確には午前55分だったようだ。因みにこの日の東京の朝の最低気温は4だったという記録も残っている。

 同時に皇族方も動き始めたとの情報も。とりあえず原稿らしい原稿も持たずに私一人スタジオへ。午前512NHKの放送開始。手元にあるのは。「高木侍医が自宅を出た。」との短い原稿だけ。その内皇居各門に皇族方が続々お入りになる映像が原稿より早く飛び込んできた。その絵の「絵解き」をしながらの、いわばアドリブ放送。絵解きとは、映像の説明。現場からの簡単な情報を元に映像にコメントしていく。次第に情報もない映像が、先行して飛び込んでくることも多くなってくる。

自分が勉強した知識や覚えた皇族方の顔を頼りにコメントすることも多くなる。「○○の宮のようです。」間違っていないだろうな、という一抹の不安に晒されながら必死にコメント。後はこれまで確認されている原稿を繰り返しながらの放送。

#記録によれば、皇太子ご一家が昭和天皇のおられる吹上御所に入られたのが午前541分。午前548分には高円宮が、午前549分には三笠宮寛仁様が相次いで吹上にお入りになっている。

実はこうした事態の場合は、皇室担当の専門記者が私の隣にきて解説することになっていたのだが、その記者(実は当時社会部副部長だった、後に高知県知事となる橋本大二郎氏)がなかなか隣に来てくれないのだ。後から考えてみれば、橋本記者は相当早く局に到着しスタジオに入っているのだが、一人で放送を続けた時間が無限の長さに感じたのだ。

必死の形相で放送を続ける内、橋本記者も登場(午前65)

ちょうどこの頃、昭和天皇の第四皇女で、昭和27年岡山の池田隆正氏と結婚された池田厚子さん(旧順宮内親王)も吹上に入られている。

  その後も、慌しい皇居の様子を映し出す映像を頼りに、橋本記者の解説も交えながら切れ目のない放送。

  午前6時半までの間に秩父宮、高松宮妃殿下も吹上にはいられている。そして北白川女官長、山本侍従長、藤森宮内庁長官の宮内庁幹部も吹上御所に。また政府の動きとして、竹下総理も午前615分には代沢の自宅を出て午前628分に皇居に入っている。

そうこうする内、どうやら事態は最終局面を迎えたという情報もオフレコで。

午前631分に「635分から宮内庁三階講堂で陛下の容体に着いて宮内庁宮尾次長が会見する。」という情報が入って来たのだ。講堂での会見は「最終局面」を意味していた。

そして635分、宮内庁宮尾次長が会見で「天皇陛下午前4時過ぎ、吹上でご危篤になられた。」という内容であった。



ここで私の役目は終わり、計画通り、斎藤季夫アナにバトンタッチ。

午前636分臨時ニュース「天皇陛下午前4時過ぎにご危篤」放送からは斎藤アナウンサーの担当となり、私はNCスタジオを出て、しばらく副調整室に待機。

 その後、午前745分皇太子が東宮御所に戻ったという情報が、NHKにも入った。午前755分から藤森宮内庁長官の会見予定がもたらされた。

午前755分藤森長官会見「天皇陛下午前633分崩御」「誠に哀痛の極み」という内容であった。ついに「その日」となったのだ。

 天皇崩御の際の告知は、真っ青な画面に白大文字のノルマルテロップで大きく「昭和天皇崩御」と書かれたタイトル文字とチャイム音と決まっていた。

いよいよそれが現実のものとなった。

 その時のニュースセンターの様子を今も忘れることができない。副調整室とその背後のNC大部屋が、立錐の余地のないほど人で埋まっていた。それだけの人がいながら話し声がほとんど聞こえない。シーンと静まり返って粛々と「崩御」放送を見守っていた。後にも先にもこんなに静かなニュースセンターは初めてだった。

  こうして私は、天皇の代替わり=昭和が終わる瞬間に立ち会ったのだ。



  その日1月7日の夜、当時の小渕官房長官から次の年号が「平成」となることが公表され、昭和64年は7日で終わることとなった。