今回は再び私のアナウンサー生活について

10年間の転勤生活の中で

家族の不幸な出来事は堪えました。

最大は、故郷京都で病気と戦っていた

母の死でした

 

昭和57年2月18日、わずか53歳で京都の母が亡くなった。生まれつき「心臓弁膜症」という、心臓の弁が欠損していた不自由な体を抱えていたが、それでも結婚して男の子を3人産むという頑張りを見せた。しかし、私が中学校に通う頃から入退院を繰り返すようになっていた。私がNHKに入って室蘭という北海道の小さな町にいくことになった時は、さすがにもう会えないと思ったのか、京都駅に送りに来て、ひかり号が見えなくなるまでホームで見送ってくれた。私自身もこれが母の見納めかと思ったものである。それでも、結婚した私を訪ねて、室蘭に父に連れられてやってきたのだ。母としては、決死の覚悟で飛行機に乗ったようだと、後に父が語っている。更に母は頑張った。昭和54年、長女の櫻子が山形の地で産まれた時には、初参りに付き添うため父に手を引かれるようにしてやってきたのだ。しかし、その頃から病院に入院している日々が次第に多くなっていて、山形での櫻子の初参りの3年後の冬、急に容態が悪化して亡くなったのだ。私はちょうどその年の昇進が決まって、世田谷区にあるNHKの研修所で泊まり込みの研修を受けていた。その日早朝、泊まっていた、研修所付属の寮の寮長にたたき起こされ、母の異変を知った。慌てて支度をして、表通りからタクシニーに飛び乗って東京駅に向かった。既に母の命はこの世になく

そんなに慌てることもなかったが、何故か「早く帰っておいで」という母の声が聞こえるような気がして、ただただ急がれた。

人目も憚らず泣きながら

京都に向かった。

この時ほどNHKの」転勤生活を恨めしいと思ったことはなかった。せめてもの救いは、母が死ぬ前日、私が取材制作したリポートが朝のニュースで放送され、映像の中の私の姿を、

ベッドから身を乗り出すようにして熱心に見ていたらしいという話を主治医から聞いたことだ。

私がNHKのアナウンサーになったことは、母の自慢であり、誰よりも喜んでくれたのが母であった。後3年、もう少し生きていれば、東京に転勤して活躍する私の姿を見せられたのに。

あまりにも早い、若い死であった。2014年2月に、その母の33回忌の法要を営むことになった。子供たちが元気で親の33回忌の法要をすることは極めて稀らしい。母の若い死を思う。


幼い娘が難病になったのもこの地でのこと。

実はこの地で生まれた次女「すみれ子」が、1歳半で重症筋無力症を発症。突然下がり始めた瞼を見て、三十になったばかりの若い夫婦はただおろおろするばかり。不幸中の幸いとはこういうことをいうのか、この病気の権威が、何と同じ栃木県内の自治医科大学病院にいらっしゃることが判明。当時東大から自治医大へ移られていた鴨下重彦教授にさっそくお電話。「娘を何とか助けて下さい。」との、礼儀知らずの親の訴えにも優しく対応していただき、「とにかくおいで下さい。実際の診察は助教授の桃井先生に見ていただきます。」とのこと。今では、小児科学の権威としてすっかり有名になられた、桃井真理子先生と出会うことになった。

これも不幸中の幸い。

1年に及ぶ入院では、すみれ子は全身がグニャグニャになるほど重症に陥ったことも。そういう時、いつも強く温かく我々若い両親を励ましていただいたのは、桃井真理子先生だった。同時に、仕事場の同僚上司の気遣いや励ましも大きな支えとなった。若い夫婦は見知らぬ地での転勤生活の中で必死に子供の命を守る戦いを続け、昭和60年春ようやく退院!ほぼ同時に東京への異動も決まった!