昨日5/15は

49年前に沖縄の施政権が日本に返還された日。

その日人々は何を見て何を感じたか?

まず私川端は、

大学2年生。学費稼ぎのアルバイトに多忙な日々を過ごしていたはず。

恥ずかしながら、沖縄返還については

殆ど覚えていない。ただテレビのニュースで、東京での国の記念式典で佐藤総理大臣が「日本国万歳」と言って万歳をしていたのを妙に鮮明におぼえている。

この時の「日本国」というのは

どういう思いだったのか未だにわからない。


地元沖縄のジャーナリストはどうだったか?

元琉球新報論説委員長の野里洋さんに

電話で聞いてみた。

野里さんは今重病で入院されている。

寝たきりのベッドの中から、あの日のことを丁寧に答えてくれた。

野里洋さんは、

本土(金沢)の出身ながら復帰前に琉球新報社に記者として入社、49年前のこの日には那覇本社にいて、沖縄の本土復帰の日を現地で取材していた。

野里さんは、その前日から先ず、嘉手納基地に入った。5/15には沖縄の施政権は日本に返還される。その日まで沖縄には、「高等弁務官」という肩書きのアメリカ軍人がいて、王のように振る舞っていた。

この時は、「ランパート高等弁務官」。

その「王」ランパートも、この日午前0時にその権限が無くなり、帰国することになっていた。

若い野里記者は、ランパートの帰国の瞬間を

嘉手納飛行場で待っていた。当時の琉球政府の

屋良朝苗主席もこの場に参列していて、「その時」を待っていたという。



嘉手納飛行場の一角に設られた白いシーツに覆われた「舞台」にスポットライトに照らされて現れた、ランパート高等弁務官は、

「高等弁務官旗」を畳んで、この職の終わりを告げ、その後静かに母国に向かう専用機に乗り込んだ。5月15日午前0時10分、専用機は爆音を上げて嘉手納飛行場を飛び立っていったという。

この一部始終を自らの目で確認する様に見た野里記者は、この後すぐさま那覇に引き返した。

那覇では、復帰記念式典と同時に、反対集会も開かれていたのだ。

記念式典は與儀に会った体育館(後の市民会館)

そして道を挟んだ與儀公園で大規模な反対集会が開かれていた。道のあっちは祝賀式典、道のこっちは反対集会というのが、その後の沖縄の不運を象徴するかのようだった。

その日那覇は土砂降りの荒天だった。

一連の取材を終え、社に出稿した野里記者はその夜、沖縄の将来の不透明さを思いつつ、土砂降りの国際通りをとぼとぼと歩いたという。

佐藤総理の「日本国万歳」はどういう意味だったのだろうか。