歴史の節目、転換点を伝えたいというのが

アナウンサーを志望した動機だったが

私の経験の中でも最大は

1989年11月のベルリンの壁崩壊だった。

  私が皇室報道で忙殺されていた頃、ポーランドの民主化から始まった東欧革命が進行、ベルリンの壁が崩壊し、ついに当時のブッシュ大統領とゴルバチョフソビエト大統領によって地中海マルタ島での会談で、東西冷戦終結に合意するなど、世界も激動の時代を迎えていた。

 昭和天皇がなくなった1989年の4月には、私は「NHKモーニングワイド」土日から月金の6時台担当となり、毎朝NHKの一番手のニュースを担当することになった。

因みに「ベルリンの壁崩壊」を伝えた日の朝はこんな様子だった。

1989年(平成元年)11月9日

その日いつものように世田谷の自宅から局差し回しの車で三時半にニュースセンターに到着。その日出稿予定のニュースのサマリーに目を通して6時からの本番に備えていた。

その日の編集責任者(編責=エディター)は頭を抱えていた。ベルリンから、「ベルリンの壁崩壊か」、とうタイトルの原稿予定が入っていたのだ。詳細不明の荒い原稿で、編責は、これが単なる壁の物理的な崩壊なのか、そうでなければ一体何かを判断する根拠を持っていなかったのだ。それほど突然のニュースであった。実は後にわかるのだが、その前日「旅行許可の規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳部に提案され、政府首脳部はその頃頻発していた国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民の対応に追われる余り、大した審議も行わず通過させ、記者会見で公表されたというのだ。この記者会見を見た東西ベルリン市民は半信半疑で壁周辺に集まりだし、ゲート付近でいざこざが起きていた。事態の悪化を恐れた東ドイツ当局者がゲート開放を決定。多くの犠牲者を出した東西ベルリンの壁があっさり開放されたのだ。(実際の壁の崩壊は翌日10日)

当時は、そうした詳しい経緯は知る由もなく、騒然としたベルリンから詳しい検証や解説もないまま、「壁の崩壊か」という一報が世界中に流れたのが実態だったようだ。

しかして、わがNHK編責氏は、ジャーナリストの直感を駆使してこれは歴史的な大ニュースかもしれないと判断、その日の朝のトップニュースを飾ることになった。正直言うが、伝えた私も実は半信半疑で半ば釈然としない気分ではあった。

このニュースは世界ではどう受け止められたか?その後1995年に取材でアメリカを訪れた際、訪問したAP通信社で、ピューリツァー賞受賞者のマーク・フリッツ記者とこの話をしたが、マークもたまたまこの日のAPの外電担当で、ベルリンからの一報を受け首を傾げたというのだ。AP通信社内でもこの一報をめぐって喧々囂々の議論が起きており、歴史的なニュースなのか、それとも市民の暴動を恐れた東ドイツ政府の単なる壁の物理的な開放なのか結論が出なかった、というのだ。NHKのニュースセンターで起きていたのと同じ戸惑いがアメリカでも起きていたのだ。歴史的なニュースというのは案外こうした戸惑いや疑心暗鬼を引き起こすものかもしれない。それほど当時の世界の激動は急激で、一線のジャーナリストといえどもついていけなかったのだ。