昭和60年8月

めでたく東京アナウンス室着任

首都圏担当の報道リポーターになりました。


私は「鉄砲玉」と呼ばれ、多くの事件事故に遭遇することになる。

 

国電同時多発ゲリラ事件

1985年(昭和60年)11月29日。この日午前三時頃、首都圏や大阪地区など8都府県の線路の通信用ケーブルが切断され、首都圏のほとんどの列車が止るなど、通勤通学客600万人に影響が出た大事件。この日はヘリコプターで空からの取材を担当。通勤通学客で混雑するターミナル駅の様子などを空からの生中継でリポートしていたが、その途上、国電浅草橋駅から上空高く煙が立ち昇るのを確認!すぐさま生でリポート。国電ゲリラ事件の犯人グループが東京台東区の総武線浅草橋駅にシャッターをこじ開けて侵入、駅施設を破壊し、火炎瓶を投げつけて放火した事件。浅草橋駅は駅舎がほぼ焼け落ちた。NHKは私の空からの発見で、いち早くこの事件を放送した!以後ヘリコプターでの取材・放送が私の重要な仕事のひとつとなり、事件事故自然災害などでヘリに乗る生活が続いた。テレビ各局は、日航ジャンボ機事故でヘリコプターが大活躍したことを受けて、ヘリコプターの取材体制の整備を急いでいた。NHKもあの事故以来、新木場のヘリポートにカメラマンやリポーターを常駐させ、私も週のうち二日は、早朝局を出て新木場に向かい、泊まりのカメラマンとともに警戒に当たりながら、朝の番組で、空からの見た風景をリポートするコーナー(ヘリコプター中継)を担当していた。

このようにして東京で報道の仕事を始めた私は、リポーターとして空から地上からと、現場を飛び回っていた。報道腕章とテレビ音声がモニタすっししーできるラジオ、それに簡単な「お泊り道具」を常に待っていた。事件事故で現場へ急行し、そのままいつ帰れるかわからない経験も多かったので、いつも二三日は泊まれる準備はしていた。この頃アナウンス室の報道担当デスクは私のことを「鉄砲玉」と呼んでいた。何かあれば鉄砲玉のように飛んでいくから。

翌年1986年(昭和61年)も鉄砲玉の生活は続いた。

 

2月静岡県伊豆熱川のホテル大東舘火災(24人死亡)

3月関東地方大雪の中、西武新宿線田無駅で後続の列車が前方に停車中の 車に追突。

 

そして三原山噴火も昭和61年の出来事だった。

11月15日 伊豆大島三原山12年ぶりに噴火。

11月21日 三原山大規模な割れ目噴火し溶岩が市街地に迫り、全島民一万人余が島外に。その後一ヶ月にわたり島民の避難が続いた。

 15日の最初の三原山噴火は小規模で、噴火を目当てに観光客が集まったほど。ところが21日夕刻、大音響とともに大規模な割れ目噴火。その後も噴火は規模を拡大していき、三原山の山裾に11もの噴火口ができてマグマが噴出。溶岩が山を下り住宅街に迫った。こうした中で、空前の全島民一万人の脱出が決断された。島と東京を結ぶ東海汽船はすべての船を大島に向かわせ、海上保安庁や自衛隊さらには近隣の島の漁船も駆けつけ、夜七時半には島の沖合いに30隻以上が集結した。こうして翌22日朝4時過ぎには島民全員の奇跡的な脱出が完了した。もちろん取材のため大島に滞在していたNHKの取材班も引き上げた。

 私は21日の割れ目噴火を受け、カメラマンとともに竹芝から東海汽船で大島へ向かったものの、途中全島民避難が始まり、結局、島に近づけずそのまま東京へ引き上げた。船から見ていると、三原山から流れ下る溶岩の行く筋もの光が、夜間鮮明に浮かび上がるのを本当に美しいと思った。



そしてその後私は、すっかり島民のいなくなった大島へ、小さなヘリコプターでNHKの先遣隊として向かうことになった。取材クルー一同、靴は鉄板の入った安全靴、もちろん頭はヘルメット。文字通り決死の覚悟である。島に着いて見れば、置き去りにされた犬が主を失って徒党を組んで走り回り、自動販売機の明かりだけが闇の中に煌々としていて、住民のいない島は、見たこともない不気味な世界になっていた。当然ながら店がないからお金は役に立たない。ただ自動販売機があるため、応援の後続部隊に小銭を大量に持ってくるよう頼んだ覚えがある。こうして数週間、人のいない島で火山の取材を続けたが、いつ大規模な割れ目噴火が起きて吹きて飛ばされるかも知れないという危険と隣あわせの取材であった。夜は警察の指導で島内に残ることは許されず、港に接岸したNHKチャーターのクルーザーで寝泊り。各社ともこの方式で取材を続けた。様々な取材を経験したが、このような取材は後にも先にもこれだけ。この時ばかりは生命の危険を切実に感じながらの取材であった。溶岩の先端というものもこのとき初めて見た。近付くと熱さが物凄く、どこが溶岩の先端かがすぐにわかった。海外ではこの溶岩に水をかけて進行を阻止した例もあり、このとき東京消防庁はその資料を取り寄せて、水をかけて固めてしまうことを真剣に検討したが、火山学者からの水蒸気爆発の危険を指摘され断念している。

三原山の取材では、一ヶ月後全島民が島へ帰る日にも島にわたり、島の人たちの故郷帰還のリポートを担当した。

 実は初任地室蘭局(1975年~78年)では有珠山の噴火(昭和52年)という貴重な経験をしていたが、あの時は、水蒸気爆発での降灰の嵐。灰と戦いながらの取材であった。しかし三原山は、ハワイのキラウエアのように火の塊の溶岩が流れ落ちる火山。残念ながら有珠山の経験はまったく役に立たなかった。

特報部へ

 こうした様々な取材現場の経験を経て、1987年(昭和62)7月アナウンサーとして初めて報道局・特報部兼務となり、NHK特集など大型番組の制作や社会・特報部記者として事件事故の取材もするようになった。