今回は逆にそもそも何故アナウンサーを志望したのかについて話します。



何故アナウンサーになったのですか?という問いはこれまで何回も突きつけられた問いであった。

私が大学卒業を目前に控えて、いわゆる就職戦線に参入したのは、昭和49年の春のことであった。その前年の昭和48年が、有名な「オイルショック」の年で、当然ながら翌49年は、各企業ともに、採用を手控えた年で、就職戦線はかなりの厳しさだった。特に普通の年でも厳しいマスコミ各社は、普段の年にも増して厳しかったのは言うまでもない。志望会社の一つだった共同通信は、入社試験なし。放送局は普段から採用人数が少なかったが、49年は採用試験さえやらないところが続出。かろうじて東京の文化放送がアナウンサーを採用するとのことで東京まで受けに行ったが、

今回はスポーツアナを採りたいと伝えられ、求められた架空実況も満足に出来ない私に出る幕はなかった。他社も在京各社は京都の大学生は受けさせても貰えず、

アナウンサーを

一般公募で、毎年多くの新人を採用するNHKにかけるしかなかったのだ。

 

「ジャーナリストになりたい」とぼんやり考えていたのはいつのころからだろうか?多分中学生の時にもう放送部に所属していたので、その頃には、将来は放送局か新聞社に入りたいものだと考えていた気がする。母校の立命館大学も、学生放送局のアナウンサーとして毎日の学内向けの放送でニュースを読んでいた。

とりわけ全国の大学で「全共闘」の活動が盛んになっていた時期。学生放送局のニュースも「敵、国家権力は、三里塚において労働者・学生に対し暴虐を繰り返しは云々」というような過激な内容であったことを覚えている。

 

 

 

いざ実際の就職試験が始まると各社ともに何時もの質問は、「何故アナウサーに(記者に)なりたいのですか?」というもの。その時の僕の答えは「歴史の節目をこの目で見たくて」というものであった。歴史の動く瞬間をこの目で見たいという希望は、かなり幼い頃から考えていたような気がする。歴史の節目に立ち会い、そのことを人に伝える仕事が出来ればどんなにいいか!学生放送局ではアナウンサー役であったので放送局を受ける場合は、第一志望職種はアナウンサーにしていたが、NHKでは第二志望に「記者」と書いていた。結局大阪朝日放送アナウンサー、大阪読売新聞記者、NHKが最終まで残り、当時先に内定が出た企業に行くという大学のルールに従ってNHKに行くことにした。 電話で内定辞退した朝日放送からは人事部の人から、「NHKに行くために朝日放送を辞退するとは!」とかなりの非難を浴びたのを覚えている。

 

 

NHKアナウンサーに採用されて世田谷区砧の研修所で行われた新人アナウンサーの研修での出来事。

「何故アナウンサーになりたかったのか?」というテーマでのフリートーキングで「歴史の節目を見たくて」とやったら、昭和50年入社組のアナウンサーの先生であった井川良久アナウンサーから「生意気だ」と言われたのを昨日のことのように思い出す。

そう、「歴史の節目を見たくて」は、当時は普通のアナウンサーではとても言い出せないほどの大きなテーマだったのだ。

 その後、本当にそういう「歴史の瞬間」に自分が立ち会うことになるとは、当時は考えもしなかった。