二か月の研修を終えて、昭和50年入局のNHKアナウンサーが全国各地に散って行ったのは6月のこと。桜井洋子さんと鈴木規子さんは、放送センター勤務だが、男性は全員、北海道から九州まで、文字通り全国へ散らばった。私は北海道室蘭放送局内示。それまで「室蘭」という地名を意識したこともなかったので、人事部の担当者から辞令を口頭で受けたその足で、日本地図を引っ張り出して、場所を確認。まったくイメージのない未知の場所であった。

 

この室蘭の地で新人アナ生活3年。

新人アナの仕事は「お知らせ」作りから始まる。各市町村などから送られて来る広報用の書きものを元ネタに、放送用のお知らせ原稿を作っていく。

広報資料だけでわからない場合は、市町村の担当者に直接電話して「取材」。こうして、同期の記者が警察に配属されて日々の事件事故で取材のイロハを学んでいる間に、新人アナは、お知らせ作りで取材を学ぶ仕掛けだ。

1週間に一度の泊まり勤務では、気象台から電話を受けて天気予報の原稿を作り、テレビ用のテロップ(字幕発生装置)を準備するのも大事な仕事。


前日先輩記者に勧められるまま飲み過ぎてしまい、翌日早朝二日酔いで、放送すること自体青息吐息で、放送事故すれすれで何とか切り抜けたこともあった。正直言って川端アナは日々失敗の連続だったのだ。

それでも赴任したその年の12月には、新人アナ憧れの「全中放送(全国放送)」も担当。

国鉄室蘭線で日本で最後となるSLが走るということで、東京からどっと取材陣がこの小さな町に集まり、私もカメラマンとペアで1214日、雪の日の最後の運行を沿線から取材。スタジオ102で放送したのだ。


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このSL最後の運行は、その後の国鉄分割民営化に繋がって行く重要な節目なのだが、大学を出たばかりのただ若いだけが取り柄の新人アナにはそういう視点は全くない。去りゆく、良き時代を惜しむ、感傷的なコメントでこのニュースを伝えるのが精一杯で、後々、取材の経験を重ねれば重ねるほど、起きた事実に対するジャーナリスティックな判断力の浅さを思い知ることになる。

当時メディアはこのニュースをどう伝えたかをわかっていただくために、記録の残る地元「苫小牧民報」の記事をご紹介する。


「サヨウナラSL、103年の歴史に幕閉じる、車内も沿線も超満員-SL最後の日となった14日、室蘭本線の室蘭-岩見沢間は、カメラの放列、見物客、伴走車で空前の混雑となった。列車には延べ4200人が乗り込んだほか、沿線には約1万人のファンが繰り出した。苫小牧駅にはホームと構内に約3500人が押し掛け、一時は列車が立往生するほどの加熱ぶりだった」

(「苫小牧民報」751215日付)



室蘭3年目の昭和52年夏には、有珠山噴火を経験。

噴火前日86日の夜、観光客で賑わう「昭和新山火祭り」が折からの群発地震で地元で不安が広がっているという全国ニュースを室蘭局発で私が読んで伝えていた。社会部災害班からは、「火山性の地震らしいが、そんなにすぐに噴火に結びつくものではない。」という情報が入ってきた。私と同期の仲倉カメラマン(201310月死去)は、少し安心して泊りの通常の仕事に戻った。翌日も「群発地震続く。」のニュースを伝えて、泊まり勤務も一段落した午前9時過ぎ「有珠山噴火」。それから一年後に山形局へ転勤するまで、降りしきる火山灰の中を右往左往して取材、火山災害というものの深刻さを認識するとともに、局の食堂の窓から見える、美しい山「有珠山」が地域にこんなにも深刻な被害を与える火山であったことを改めて認識した。有名な昭和新山がこの有珠山噴火で出来たものであることも、この時初めて知った。

実は日本列島には、こうした、危険な火山と隣り合わせの生活が多くあることも学んだ。若いアナウンサーは日々苦戦しつつ「学習」したのだ。、