昭和50(1975)NHKにアナウンサーとして採用され、

4月から世田谷区砧の研修センターで合宿生活で、朝から晩までアナウンサーの基礎的訓練。ちなみに昭和50年採用のアナウンサーは22人。

男性アナ20人、女性アナ2人。(女性は桜井洋子と鈴木規子)



上の写真

研修所時代の写真(砧寮にて)


下の写真 

三宅民夫 末田政雄も同期でした。



6月研修を終えて、全員全国各地の放送局に赴任。私は北海道の室蘭放送局へ。

三宅は盛岡 末田は山口へ。

その後私は、山形 宇都宮と転勤生活。

昭和60年入局10年目でめでたく東京アナウンス室に異動。

同時に三宅アナも京都からアナウンス室へ異動。

川端 三宅は50年入局組で最初に帰ってきたのです。


さてその当時のアナウンス室は、スターアナウンサーが綺羅星の如くいらっしゃいました。

放送センター東館5階にあった、やや暗いアナウンス室は異様な雰囲気で、

地方から出張で出て来ても気軽に入れる雰囲気ではなかった。

アナウンス室の丁度真ん中付近にひときわ大きな両袖のついた机で

本をうず高く積んでその壁に隠れるように仕事をされていたのは、 

かの有名な鈴木健二アナウンサーであった。

同じ部屋には、紅白の司会で有名な山川静夫アナウンサーや

ニュース部門では、西澤祥平アナウンサーも現役で国会中継などを務められ、

松平定知アナウンサーは、「夜7時のニュース」担当していた。

「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、

          そのようにして歳月は静かに流れていきます。」

「日本のメロディ」のオープニングの語りで有名な中西龍さんも現役だった。当時龍さんは世田谷にお住まいで東横線で通勤されていましたが、時折、というよりほぼ毎日、デパート地下の食品店売り場で試食しながら帰りの電車までの時間を過ごされていた姿が思い出される。

女性アナウンサーでは、室町澄子アナや加々美幸子アナウンサーも現役でおられた。

わが同期の桜井洋子アナも入局10年であったので結構大きな顔で過ごされていたのを覚えている。

すぐ先輩では美人アナの名をほしいままにしておられた須磨佳津江アナや、

後に厚生大臣になる小宮山洋子アナウンサーもおられた。

若い松平アナは、机の上に両足をのせて「休憩」しておられた。後の大物ぶりの片鱗がもうこの頃見られたのだ。


当時アナウンス室の入口の脇には、大きな白板があって、在籍する100人のアナウンサーの名前がずらっと並んでいたが、五十音順ではなかった。ある時「何の順序ですか?」と聞いたら、「えらい順。正確に言えば給料の多い順だ。」と先輩が教えてくれた。

勿論新参の私と三宅民夫アナは、その一覧の一番下であった。


こうして、スターアナウンサーに囲まれて、私の東京でのアナウンサー生活が

は始まった。

時に昭和60(1985)8月のこと。