アナウンサーの仕事


アナウンサーとというのはどんな仕事か?

実は視聴者には意外に知られていない。

かつては

与えられた原稿を一字一句正確に発音して伝える仕事と思われてきたが

今放送局のアナウンサーでそういう仕事だけをするアナウンサーは

ほとんどいないのが実体なのだ。

私自身が体験した、NHKのアナウンサーの大改革の時代のことを書く。

昭和50年代の終わり頃、NHKのアナウンサーは大きな試練に直面した。

それは当時報道局長だった、かつてのNC9の名アンカー磯村尚徳氏の発言から始まった。

磯村尚徳氏が、「取材の出来ない職種である、アナウンサーは要らない。」と発言したと伝えられた。この発言が本当にあったかどうか今もって事実はわからないが、NHKのアナウンサー集団に大きな動揺をもたらしたことは間違いない。事実、昭和59年入局のアナンサーはほとんどいない。採用を控えたようなのだ。

ほぼ同時期(昭和59年)に朝の「ニュースワイド」のメーンキャスターをされていた森本毅郎アナウンサーがNHKをお辞めになっている。

当時報道局は、夜のNC9のキャスターの木村太郎さんがNHKの看板で、

報道局長の磯村さんの下、海外ウイークリーキャスターの平野次郎さんとの「太郎 次郎」コンビが、島会長お気に入りで、NHK報道を背負っていたのだ。

 その頃の「アナウンス研究会」という名のアナウンサー研修で講師役の森本さんが、私たち若手に向かって「今、アナウンサーは、報道ではなんとなく居住まいの悪い感じになっている。」と発言されたのを今でも忘れない。

だから全国の若手アナウンサーのリーダー役でもあった森本さんの退職はアナウンサー集団に大変なショックを与えたことだけは確かである。

 いずれにせよ、「取材の出来るアナウンサー」を養成したいというのが、アナウンサー集団の切実な願望になったことは間違いない。

そして、

昭和60年夏、報道局の中に「特報部」という選り抜き集団が結成された。

直後から、「アナウンサーも」という組織的願望があったようだが、2年後の87年になってようやく実現。

私と46年入局のIアナが、特報部兼務となって、「G1グループ」と言われた特ダネを取るのが目的の精鋭集団に配属された。

特報部へ行く際、アナウンス室からは、「当面画面に顔を出すことはこだわらず、特報部員として取材に精励せよ!」との言葉を背に、兼務とは言え、二度と帰らないつもりでアナウンス室を後にしたのだ。私と井上アナは、社会特報部の遊軍グループの仕事をしながら、来る日も来る日も「特ダネ」を求めてネタ探しに明け暮れることになった。

そんな中で私自身も特ダネを取ったりした。

JIS規格で決められた電動車椅子のスピードが遅すぎて、歩道を渡りきれないなど危険なため、通産省工業技術院がJIS規格の改定に乗り出したという、小さいが影響力の大きいニュースを、1ヶ月くらい工業技術院に通い詰めてスクープ。当日の19時ニュース冒頭の「主なニュース」でも紹介された。

翌日各新聞も追いかけて、鮮やかなスクープとなった。

その後私は、地下暴騰をテーマにした、NHK特集「土地は誰のものか」プロジェクト(通称土地プロ)へ配属になり、NHK特集の制作・取材も担当することになった。

こうした我々の活動をきっかけに、NHKのアナウンサー集団は、

それまでの音声鍛錬中心の、若いアナウンサーの育成の柱に、「取材 番組制作能力の涵養」を据えるようになった。

しかしそれは、音声表現はどうでもいいということではなかったはずなのに、いつしか取材制作能力に優れたアナウンサーがいいアナウンサーだという、大きな誤解が生まれる一因となっていった。

そうした時代を経て、

前のブログに書いた、「鼻濁音」ができないアナウンサーか多くなってきた現状には、誤解とはいえ、私を含めた取材制作部門に兼務した、ファーストペンギンの責任は免れないと思う。

やっぱり音声表現がきちんとできてこそのアナウンサーであることは当然のことなのだ。

テレビを見ながら、年老いた元アナウンサーは暗い気持ちに襲われている今日この頃なのだ。