今、NHKのアナウンサーの異動時期である。以前は他の職員と同じように夏の異動期であったが、私が現役を離れる頃から、四月新番組のスタートに合わせて23月異動も行われるようになった。何人かの後輩たちも、地方への内示を受けたり、地方にいるアナウンサーが東京アナウンス室に戻ったり、ずっと地方局にいて晴れてアナウンス室に異動になったり、悲喜こもごもである。

私が東京アナウンス室勤務となったのは昭和60年(1985年)8月、入局10年でアナウンス室へ異動となり「男子の本懐」とばかりに東京へ。

前年昭和59年に同期の「佐藤充宏アナ」が仙台から東京へ異動!これが我が同期の最初のアナ室勤務となったが、翌年昭和60年は、私が宇都宮局から「異例の抜擢」でアナウンス室へ!もう一人、今も現役の三宅民夫アナが京都から「順当に」アナウンス室勤務となった。

今も7月末の東京アナウンス室異動の「内示」は忘れられない。この年、栃木県からは「国学院栃木」が、栃木県予選を勝ち抜いて夏の甲子園へ!「内示」の日私は、代表校取材で栃木市の同校を訪れていた。街の俯瞰(高いところから見た全景)を撮るため、大平山という山の上に収録のための中継車をあげて作業をしていると宇都宮局から電話!羽石放送部長のいつもの声で「東京アナウンス室への異動」を告げられたのだ!これまでの人生の中でこれほど感激したことは多分なかった!前日夜、羽石部長からの自宅への電話で東京アナウンス室へ内示があることは聞いていたのに、その日正式に告げられると本当に感激した!この瞬間、これまで10年間の地方生活が走馬灯のように頭をよぎり、特に次女すみれ子の病気で苦労した宇都宮での4年間が胸に迫ってきた。大平山から歩いて街へ向かったが、道の両側に咲いた満開の紫陽花の中を歩きながら、男泣きに泣いたのを今も忘れない。どうしても涙が溢れてしょうがなかった!この涙が私のNHK転勤生活の原点であつた!

89日アナウンス室着任。3日後、あの日航ジャンボ機墜落事故に遭遇したのだ。

 当時のアナウンス室はまだ、世にいうスターアナウンサーが、綺羅星の如く在籍されていた時代で、放送センター東館5階にあった、やや暗いアナウンス室は異様な雰囲気で、地方から出張で出て来ても気軽に入れる雰囲気ではなかった。アナウンス室の丁度真ん中付近にひときわ大きな両袖のついた机で本をうず高く積んでその壁に隠れるように仕事をされていたのは、かの有名な鈴木健二アナウンサーであった。同じ部屋には、紅白の司会で有名な山川静夫アナウンサーやニュース部門では、西澤祥平アナウンサーも現役で国会中継などを務められ、松平定知アナウンサーは、「夜7時のニュース」担当していた。

「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。」の「日本のメロディ」のオープニングの語りで有名な中西龍さんも現役だった。当時龍さんは世田谷にお住まいで東横線で通勤されていましたが、時折、というよりほぼ毎日、デパート地下の食品店売り場で試食しながら帰りの電車までの時間を過ごされていた姿が思い出される。

因みに、私が担当した、相田洋プロデューサーの、昭和43年の最後の南米移住船アルゼンチナ丸の乗客のその後を追ったライフワーク、1988年のNHKスペシャル「移住20年目の乗船名簿」の前作の、1978年の「移住10年目の乗船名簿」を担当されたのは中西龍さんだった。(最初の作品1968年の「乗船名簿AR29」は竹内三郎アナウンサーの語りであった。)

 女性アナウンサーでは、室町澄子アナや加々美幸子アナウンサーも現役でおられた。わが同期の桜井洋子アナも入局10年であったので結構大きな顔で過ごされていたのを覚えている。すぐ先輩では美人アナの名をほしいままにしておられた須磨佳津江アナや、後に厚生大臣になる小宮山洋子アナウンサーもおられた。

当時アナウンス室の入口の脇には、大きな白板があって、在籍するアナウンサーの名前がずらっと並んでいたが、五十音順ではなかった。ある時「何の順序ですか?」と聞いたら、「えらい順。正確に言えば給料の多い順だ。」と先輩が教えてくれた。勿論新参の私と三宅民夫アナは、その一覧の一番下であった。

昭和60年当時、NHKアナウンサー約700人くらいだったか。このうち東京アナウンス室在籍は100人(定員はあったか、なかったかわからないが、ぴったり100人であった。)残りは地方局勤務であった。この東京の100人になるのがNHKに入ったアナウンサー共通の願いであり、もっとも早い人で、10年目で東京というケースが多かったようだが、そのころは入局から15年、20年たっても一度も東京を経験していないアナウンサーが一杯というよりほとんどであった。

初任地室蘭から宇都宮まで地方局に在籍していたが、同僚アナで東京経験者は

ほとんどいなかった。山形局時代、東京アナ室からチーフアナウンサーとして異動されてきた田辺幸三アナウンサー(昭和37年入局。直前まで総合テレビの「暮らしの経済」を担当されていた。)だけである。そんな中で、私がNHKのアナウンサーになった昭和50年の前年の昭和49年に、珍しく入局5年、地方局(高知放送局)1局勤務だけという若いアナウンサーがアナウンス室に異動となり、話題になっていた。あの松平定知アナウンサーである。昭和50年は4月から研修所で毎日新人研修を受けていたが、先生の引率でアナウンス室を見学に行ったことがあったが、その時アナウンス室で一番若い松平アナは、机の上に両足をのせて「休憩」しておられた。後の大物ぶりの片鱗がもうこの頃見られたのだ。

入局10年目という節目で、ほとんどあきらめかけていたアナウンス室に異動になった私は、しばらくは首都圏担当の報道リポーターの生活が続くことになった。ここで私は「鉄砲玉」と呼ばれ、多くの事件事故に遭遇することになる。