この映画を見る直前、ちょっといつもと違う仕事をする機会がありました。
それもあってここ最近は、いかに自分が“刷り込み”に引っ張られて生きてきたかを考えていました。
自分にはそんなことできない、
自分はそこまでやらなくてもいい、
そういう引きの姿勢って、女性なら少なからず持っているんじゃないかなと思っています。(男性もかもしれませんが)
私は気は強いし、ジェンダーやフェミニズムについても学んできましたが、それでも自然にそういう姿勢を取ることがありました。
なぜか?
それは、私が引きの姿勢を取ったとしても、それは“女性だから”でなく、別の理由だからだと思い込んでいたからです。
仕事がわかりやすいですが、例えば私が外回りの営業をしないとする。それは営業という職種ではないからであって、女性だからではない、という理由付けができます。
でも、実際にはそもそも業界的に外回りの営業女性がものすごく少ないとすると…それは私が営業ではないからではなく、営業を選べなかったからとも言える。
ややこしいんですが、簡単に言うと、構造的なアンバランスを、まるで自分が選んだかのように思い込んでいたんじゃないか、知らず知らずのうちにそう刷り込まれていたんじゃないか、と思ったんです。
構造的なアンバランスは事実としてたくさんのデータがあると思いますし、それを目にしたこともありますが、あんまり自分のこととして実感はしていなかったんです。
でも、特に精神的な面で、刷り込まれていた!!とここに来て実感しました。
自分はそんなことはない、という人は、日常的に「自分にはそんなことできない」「自分はそこまでやらなくてもいい」と思った時、なぜそう思うのか?一度考えてみてほしいです。できるはずだし、やってもいいはずなんです。それは否定するのは誰の意思なのか、本当に自分の意思なのかを考えてみてほしいです。
映画に戻ります。
映画の中の女性記者2人はいわゆるバリキャリです。主夫みたいな(でも働いている)夫がいて、彼らが子どもを看ていることが多いです。
でもそんなことはどうでもよくて、女性記者2人がどんな男性とも対等に話しているのを見てみてほしいです。仕事でも、私生活でも。
相手がどんな肩書や立場であれ、自分なんかとはちゃんと話してくれないとは思わない。聞きたいことははっきり聞く。女性なのに母なのに妻なのにとは全く思わない。やるべきことをやって、おかしなことにはなびかない。
めちゃめちゃ強いですが、見ているとこれが当たり前だよなと思えてくるんです。
もう1回、見直そうと思います。