茨木のり子さんの一部の詩が大大大好きです。
特に何度も思い出すのがさくら 。
全然桜の季節じゃなくても、思い出します。
それはこの詩の最後の、
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
があまりにも鮮烈だから。
昨夜また、寝る間際に「生はいとしき蜃気楼」という言葉を思い出していました。
いつもは、人生の短さとか、儚さを感じて、切ないなあ、なんて思っていたんです。
でも昨日は、ホッとしているというか、安心している自分がいました。
今日が楽しかった、今日を充実して過ごせた、だから「生はいとしき蜃気楼」だけど、よかった、よかった…そんな感じでした。
今まで、例えばglobeの歌詞を大人になって聞いて、さ、刺さるー!みたいなことはよくあったんです。
でもこの「さくら」の場合は何か違いました。
こんなに言葉の受け取り方が変わることがあるんだなと、自分でもびっくりしてしまうほど…
最近ほんとに「生はいとしき蜃気楼」と感じることが多くて、自分と自分の大切な人たちが元気な時間って何て短いんだろうと思う。
短いのに、短いと気付くまでが長いから、余計に短いという。
「生はいとしき蜃気楼」ならば、残るのはささいな楽しさや笑いだけなんじゃないかと思ったり。
悔いのないように生きようなんて思うことすら煩わしく感じるくらい、蜃気楼のような一瞬の一生を過ごしているんだなあと思います。