「天理教その搾取戦術」 その10 | 1/17000の闘争と逃走

1/17000の闘争と逃走

日本全国に根を張る巨大組織。
その中のたった一つの小さな存在が反乱を起こし、闘争と逃走を開始した。
その記録と手法を簡明な文章でお届けする。

 

【参考意見】様  2020年6月25日投稿

 

>>昭和5年発行「天理教その搾取戦術」より

 

 

第一の例によりて明らかに知られる如く、

 

人間のようなものでない、理が神、誠一つが天の理なることを知ることができるのである。

 

さて理とか誠とかいうものは、

実在として存在するものではなくして、言わば名前である。

 

例えて言えば、砂糖袋の袋のようなもので、何も無いものである。

道徳と云うに於て規範としてあるので、道徳が実在として存在するものでない。

 

難しい言葉で言えば、存在判断の対象とは如何にしてもなり得ないものであって、

それは価値判断の対象としかならぬものである。

 

だから第二例の文中にもある如き抽象されたものであり、空っぽな何も無いものである。

だからこれを有ると思って、いくら有難がったところで、

砂糖袋の空のやつから、砂糖が出て来っこはないではないか。

 

たまには砂糖が出てきたかの如くに甘く感ずるかも知れぬが、

それは甘く感じたまでで、胃液が出るから食物が必ず胃袋の中に入ったとは限らない。

 

食物を考えただけでも、我々の胃に於いての生理的作用の必然より、胃液は出るものである。

だから胃液が出たから食物が入ったのだなんぞ考えるのは、

一大錯覚であるか、認識不足の人のみに真理として受け取られる真理である。

もう一例を示すが、我々は梅酢を口中に入れれば非常に唾液が出ることは誰でも知っている。

ところがまた梅酢を思い出しても、スッパいと思うと唾液が出るということも誰でも知っている。

そこで問題はここにある。

梅酢を思って唾液が出たからといって、俺は梅酢を食ったと言う者があるならば、読者諸君は必ず笑うだろう。

 

が、精神的の状態では、食わぬ梅酢に唾液を分泌せしめて、

本当に梅酢を食ったと思い込んでいる者が、随分あることを知らねばならぬ。

 

 

実際に実在せざる神に祈願祈祷を捧げて何の価値があるか。

 

* 「たすけでもをかみきとふでいくてなし    うかがいたてゝいくでなけれど」 3-45

  毎朝夕のおつとめで一生懸命「お願い」「祈祷」をしている教会や信者さんは多いと思いますが、

  教祖も「拝み祈祷で人助けをするわけではない」と教えてます。

  

 

もし御利益があるとしたら、

それは食わぬ梅酢に唾液を出して、

食わせてもらったと有難がるのと一般(※同様、同類)である。

 

 

 

教祖は規範を教えたのだ。

 

 

教祖の教えた神は、第一例によれば規則を教えたのである。

 

 

だから神を祈ることは、その規則を実行することである。

 

* かねてより、

  教祖の教えが宗教という形ではなく、道徳や社会規範として広まるか、

  哲学、経済学、社会学という学問的研究がされれば、

  天理教はまた違った発展を遂げたのではないかと個人的に考えていましたが、

  批判的立場の人からこのような指摘や意見を頂くとは驚きしかありません。

  それも90年も以前に、、、  ため息が出るばかりです。

 

 

その規則は道徳で云う誠であるに過ぎない。

真実、正直であるに過ぎない。

これは宗教ばかりでなく、道徳倫理の教えるところである。

 

何等の奇も無く、変哲も無い。

道徳倫理は人間の履むべき常道なり。

何で、こと新しく偉くせしめる必要あるやである。

 

* 教祖は、人間の生命発祥から陽気づくめの世界に至るまでの「理」(=生命発祥の理、天然自然の理、陽気づくめ普請の理)を教えて下さっていますが、教団から外部に発信される情報ではその事には触れず、オカルト摩訶不思議な教祖の「中身のない言葉だけ」になっておりますので、一般の道徳理論とさほど変わらない程度と思われても仕方がないかもしれません。

 

 

くれぐれも言う。

 

 

神は理なり誠なりである。

神は道徳である。

 

 

(天理教のいう神が)読者諸君よ、道徳に祈祷祈願を諸君はするか?

 

道徳に対して宗教的行為を、するとしないとは読者諸君の勝手だが、

余をして言わすむれば祈祷祈願を道徳にするよりも、

まず道徳的行為、倫理的実践を行うことが、最も必要かつ先決問題ではないか。

 

 

かかる意味の要求を、天理教の神は要求していることは、漸次明瞭に展開されるであろう。

 

 

理は無なり(実在せざると云うこと)ということを銘記されたい。

 

* ここまで明瞭に「神の存在」を否定した批判は初めて見ました。

  これは天理教に限らす、既存宗教の殆どに当てはまる内容だと思います。

 

 

 

次に第二例であるが、この第二例は、

全く理=神と日本古典の神名とを結びつけるに、イタく苦心しているのが、ありありと看取される。

 

しかも遂には、

天理教の神と日本古典(古事記、日本書紀、古語拾遺等)の神との結合に於て付会成らず、

失敗に終わっているのは、真に気の毒であると言わねばなるまい。

 

そしてまた天理教の神と日本古典の神との付会をせるものなりとのことに対する、

余等の研究の対象には恰好の標本であるのだ。

 

ではこれを解剖台上に引っ捕らえて来て、剖検して見ることとせん。

 

* これまでの他の書籍にもありましたように、「認可を受けるために作った」教典なので、神名や守護、来歴、教義の解釈に辻褄が合わない事が多いのです。その明治教典の流れで戦後の昭和教典が作られています。

 

 

第二例によれば、

「天理王命とは十柱の神様を総称して申し上げるのであります。総称とは十柱の神様の御守護を抽象して称えたので云々」とある。

 

さて、この文中の抽象ということについては、もう説明した。

 

だから今度は総称ということについて、少し述べることとする。

 

 

総称とは例えば、

人参、巻菜、水菜、蓮等を一括して青物または野菜と称することと同一であって、

野菜なるものは、実は人参や巻菜や水菜や蓮を離れてはない。

だから人参や巻菜や水菜や蓮は存在するが、野菜はそれ自身では存在しないのである。

 

有るのではないのである。

無いのである。

空っぽなのである。

 

ここでも天理王命は、ただ名前だけで存在しないのである。

 

と、天理教学者等が明白に書物に書いているのである。

 

如何に彼等の公正なる処置の仕方よ。

 

三讃に価するだろう。

 

 

だがここに見逃すべからざる、不敬神の事実がある。

 

それは上述の如き、無い神様、名前ばかりで存在しない神様を以て、

日本の神様即ち十柱の神様を総称するという一事である。

 

少なくとも神様の御名を一柱々々に称し奉るは当然であって、

これを一つにひっくるめて言ってしまうとするのは、

如何にも神に対する冒涜も甚だしいではないか。

 

日本古典の神は、清濁併せ吞むの浩博なる気宇を有するを以て、

神罰を下すことを差し控えられているのであろうが、

これが他の神様であってみたまえ。

神罰たちどころに下るであろう。

 

とにかく突然現れた無籍の天理王命を、日本古典に神籍を有する十柱の神の総称だなんぞと言うのは僭越の沙汰である。

しかも論者が天理教徒の一信徒で、

偏執病にかかっている者ならば、

まだ赦すべき点もあろうが

(余の見るところを以てせば、天理教に関する信徒側の著書中、この偏執病に囚われている者が、かなり多くあることは、いつでも指摘できるのである)

こといやしくも大和の本場であり、

しかも一人の著書によらない協同的、言わば編集である著書上に、

斯かる事柄をオメオメ述べているのは、実に厚顔無恥不学の徒であると言われても、返答の辞もあるまい。

 

 

さらに面白いことは、その次の文句である。

 

娘が何時の間にやらシワクチャ婆になったということは何も不思議でないが、

シワクチャ婆さんが娘になるということは前代未聞。

奇蹟以上でなければなるまい。

 

さらに、主人の地位を取って納まる召使ありとすれば、

それこそ許し難い事柄に属すると言わねばならぬ。

 

然るに実際は次の文句の如く、

空な無いはずの天理王命が、豪然と有ると言い、存在すると言っている。

 

しかも今まで実在として存在していた十柱の神様は、何時の間にか「はたらき」と同じ様にさせられてしまっている。

 

言わば、実在しないものとされている。

これこそ面食らわざるを得ないではないか。

 

即ちそれは

「これは丁度、物には体と用とに分かれてあるように、その用は多方面であっても、体は一つであるのと同じようなものであります」

と言うことに出ている。

 

ここでは完全に天理王命が体となり、

十柱の神が用となって主客転倒した叙述を、

平気で涼しそうにシャシャした態度で、

アッサリ取り扱っているのではないか。

 

体と用との関係、意味は素人方には、よく分かりかねるかも知れませぬが、

一例を引いて説明すると、

人間が体で、その人間の働きを用というのであります。

これでお分かりになったように、人間を離れて「用」はありません。

 

これと同じように、天理王命を離れて十柱の神はないことになる。

それは実在するから。

そして十柱の神は作用なのであるから。

 

さてここで、先には無かった神、

即ち総称という空っぽな神が、

ここでは何の手品のタネも仕込まずに、

空っぽでなくなったということは、

如何にも下手な手品ではないか。

 

またその態度は、人を馬鹿にして出た、不遜な態度ではないか。

人間を人間とも思わず、盲者扱いにしようとする態度は、憎んでも飽き足らぬではないか。

 

さらに、意識が、知、情、意を統括するなんぞは、

今日の進歩せる心理学から見れば、まことに愚にもつかない前代の遺物である。

 

今日の心理学の立場は、

ゼームスの所謂意識の流れ(Stream of consciousness)を根本立場として、

知、情、意、と別れたものを統一も非統一もなく、

この意識の流れを知的とし、情的とし、意的として眺めるというに至っているのである。

 

なお、統一云々と言うが、

今日最も進歩せる観念論哲学にありては、

意識が統一するのではなくて、

むしろ意志的のものが統一純化するものであると云うのが最も優れたものであるのである。

 

また、この例によりても、

意識の流れを知的意的情的の傾向あるものと見、

意識を以て天理王命とし、

知、情、意を以て十柱の神とするならば、

まれまた空っぽな天理王命を以て十柱の神より優位と為すものである。

 

廣池博士(第三例)の、十柱の神とは、この根本神霊の任務の分類なりと言っているものもまた同様。

 

天理王命と十柱の神とを結合せしめんとして、遂に天理王命と十柱の神との関係を漠然とさせる結果をしか、齎さなかったのである。

 

 

なお廣池博士によりて述べられている、

神も人間も泥海の内、

または暗黒の中より組織せられて今日の光明世界となり文明社会を現出せるものと言うにある。

 

さてここで、余は問うであろう。

 

1、神及び人間が組織せられた泥海を、一体誰が創造したのであるか?

2、第一元因は何であるか?

 

余は、この二問題を提出して、天理教当局の回答を促すのである。

 

たんのう々々と言って逃げられぬよう、注意しておくところである。

 

 

 

さて、神についての考証は、大要ではあるが上掲に止めておく。

 

 

天理教の神は、空虚な神である。

 

教祖中山ミキの意識にのみ存在するものである。

それは実在ではなく、実在視せられるものである。

 

教祖中山ミキによりて考えられたる神である。

考えられたるが故に、存在するとは如何にしても断ずることはできざる神である。

 

その有様は丁度カントの要請されたる神の性質に等しい。

存在すると思われる神である。

思われる神なるが故に、存在せざる神である。

無き神であり、空虚な神である。

 

 

この神に何で力があろうや、宜なる哉。

それだからこそ、神の名に於て教祖中山ミキは病人を癒したことが、殊に多かったと伝えられている。

だのに現在の教師は、これをよくし得ざると嘆じている。

それ等の病人を癒すこと、即ち霊救と称することの、今日僅微になったのは、

全く教祖中山ミキの力によるものにして、教祖によりて口にせられた神の力によるものではない。

 

教祖とてまた、

自分の意識によりて考え出した神を、実在するものとし、

その神の力によるものと考えていたかも知れぬ。

 

 

だがそれは教祖が神ありと自覚したのであって、

神が教祖をして神ありと自覚せしめたのではない。

 

 

教祖即ち人間が、神即ち安き国の主宰者を、現実=娑婆世界の苦悩より逃避するために作り出したまでである。

 

 

人間あっての神であり、神あっての人間ではない。

人間は神に先立つものである。

天啓とは、人間の神を作るとの行動に名付けた謂である。

 

故に天啓の教えとは、人間によりて作られたる教えと云うのと等しく、その他の何事をも意味せぬものである。

 

 

然るに、

彼等は借物の理を以て、この神言は悉くお道の御教理の真髄であって、

千古不磨の一大経典であると崇め、本教の教理中最も重要なるものの一つであると称している。

 

無よりの言は、あり得ない。

これをして最も大切なるものの価値あるものとするは、そこに何等かの底意があらねばならぬ。

 

しかもこの(借物の理)の意味を知るときには、

天理教教外の者には警戒すべきことではあろうが、

教内、殊に本部当局者並びに教会長、教師にとりては、

医学界に於てコカインと共に重宝がられる阿片剤の如き地位を占むるものである。

 

阿片剤なるが故に薬ともなり、毒とも為し得べきものである。

 

元来、阿片剤の価値は、薬とさるべきに存して、毒とさるべき時には有せぬものである。

本来は薬とされることによりて真の価値を発揮し得る阿片剤も、

悪医にかかっては、陰謀者にかかっては、我利々々亡者の人非人にかかっては、

最も顕著な毒性を発揮するものである。

 

阿片の如き働きを為す「借物の理」を天理教は、はたして善用しているであろうか。

悪徳者は無きか、

陰謀者は無きか、

我利々々亡者は無きか。

 

余は不幸にして、これ等を認めざるを得ないのである。

故に、所謂世にも尊き、

世間を指導誘掖する、

世の師表たる宗教家の内の天理教を「天理屋」と呼ぶ営業所とせざるを得なくなるのである。

 

少なくとも教祖のとれるが如き形態に於て、

世に働きかけつつあるならば、

余をしてこの罵倒的語を出ださしめざるものを。<<

 

 

* 「天理教その搾取戦略」はまだまだ全体の数分の一ですが、参考意見様から頂いた原稿はここまでです。

  引き続き文字起しをして頂けるとの事なので、原稿をお寄せいただき次第掲載させて頂きます。

  

 

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【参考意見様】

 

天理屋の営業方針は

「信者なんて、みーんな無知で馬鹿だから、コジツケでも出任せでも、テキトーに難しい言葉を並べて畳み掛ければ万事OK!」

と、言ったところでしょうか。

我利々々亡者の人非人とは、よくぞ言ってくれました。

 

ただ「天理王命」は教祖が言った神名ではないことを、著者が理解してくれていれば良かったのですが。