【参考意見】様 2020年6月25日投稿
>>昭和5年発行「天理教その搾取戦術」より
第一章 つづき (P64~ コマ番号41)
四、天理教の神が存在するとは真赤な大嘘言だ
余は右の一命題を掲げよう。
何故大嘘言であるか、この事の理由は詳しくは後述すると思うが、まあ、ここにも述べておくとする。
天理教では天理王命を、親神とか、実の神とか、元の神とか言う。
これは実の神とは、実ならぬ神、即ち嘘の神に対しているであろうし、元の神とは末葉の神に対しての言い方であろう。
まず教徒の権威、廣池博士の所説を聴こう。
「始めは南無天理王命といえり。
南無は神の本体にして即ち宇宙の形を指す。
天理は宇宙の生成活動変化の有形無形の理を意味す。
而して神も人間も泥海の内または暗黒の中より組織せられて
今日の光明世界となり文明社会を現出せるものと云うにありて
其の説は今日の所謂進化説に一致せり。
其の十種の神とは、此根本神霊の任務の分類なりという。云々」
(三省堂、日本百科大辞典第7巻74頁中段天理教の項参照)
まず注意すべきは始め「南無天理王命」なる文字でなければならぬ。
宗教学も仏教もやらぬ人間なら、
なるほど南無という意味は神の本体で即ち宇宙の形を指すことだと思われるかも知れぬが、
この「南無」という意味を知っている仏教学者や宗教学者や、
たとえ概論であっても仏教書若しくは宗教書の四、五冊も読んだ人の眼を眩ますことはできまい。
廣池博士は知ってか知らなくてか、
斯かる解釈を南無に付したのは、
何等かの根拠があるに相違あるまい。
その根拠は天啓の文たるが故である。
天啓教と自ら誇る天理教の、コジツケである以外の何物でもないということを知るは、
学的見地より見て、あまりに俗学的なことではないか。
それとても博士が、
これを博士の名に於て天理教信者を信用せしむるに足ると思し召しておられるとすれば、
むしろその非を鳴らすよりも、
その態度を憫笑せざるを得ない哀れさを感じるのである。
中学生でさえ、博士の如き意味に南無を解せないということを、読者諸君と共に見ていくこととしよう。
「南無(仏)訳して帰命といい、二重にして『南無帰命』といい更に『南無帰命頂礼』という。
要するに仏に救いを求め、生命を捧げて仏に帰投する意」
(塚本哲三氏著「現代文解釈法」用語編61頁)
「南無(漢)(梵語 Namah または Namo)帰命、頂礼または真実と訳す。仏を祈るとき冒頭に用うる言葉」
(文学博士金澤庄三郎氏著「辞林」887頁)
「南無(梵)Namah 又 Namo の音訳。後生を助け給えと願う意。救我、帰命覚、恭敬、信徒等と訳する。南摩、那謨、納慕」
(服部宇之吉氏、小柳司氣太氏共著「詳解漢和大字典」243頁上段参照)
「南無(仏)後生を助けたまえと仏に祈る語。救我、帰命頂礼、真実などと訳す。釋氏要覧唯識鈔云、梵語 Namah Namo 此翻為名、即是帰趣之義也。」
(簡野道明氏著「字源」274頁4段参照)
「南無は帰命(梵)Namah 梵語南無(南謨)の支那訳。南謨彌多婆耶 Namo mitabhaya を帰命無量光と訳するが如し。一般に南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などの如く仏か法に対して帰依、敬体、信順を表するの語。南無の義訳に帰命の外、敬体、帰体救我、度我(敬体帰依して救済を要請するより救我度我と云う)屈膝(敬体の形状)等あるも、普通に帰命の訳語を用う。帰命 Namas Namah Namo と帰依 Saranam gacchati とは原語を異にすれども略同意の語である云々」
(岩波、哲学辞典201頁矢吹慶輝氏解)
「Namah 身を屈す、Namas 帰敬、敬体」
(文学博士萩原雲来氏実習梵語学附録29頁)
ここで一寸説明を加えておくが、Namah はNamas と同じく、これ等の語根が Nam であって、動詞であるということに注意しておきたい。
「namu(南無)Save us ! namo ! 」(※判読困難のため以下略、英語の辞書の引用らしい)
* 参照「劇画 中山みき物語」より
さて以上、南無の解釈について、諸家の意見を眺めてきた。
ここで我々は、南無とは梵語の語根である Nam の意味が、どれにでも含まれていることを知る。
而して南無の語根は動詞である以上、南無そのものの意味もまた動詞であることは、言うまでもあるまい。
上掲に注意を引いたように、武田氏の南無の英訳は、やはり動詞たる Save として訳しているではないか。
然らば、如何なる意味かというに、言うまでもなく「帰依する」ということである。
動詞の性質として、動きかけるものと、動きかけられるものとを含むことは御承知のことであろう。
即ち、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に帰依する、阿弥陀仏に救われんと帰投することである。
南無妙法蓮華経と言う場合の南無もまた然りである。
さて吾々は、南無という言葉が、救う、済度する、帰命するということを表すことであるということに結果した。
然るに、
天理教きっての学者である廣池博士は何の意ありて、
かくも明瞭なる動詞を「南無は神の本体にして即ち宇宙の形を指す」と言ったか?
本体とは動かざるものの名称を意味し、従って南無は存在という名詞を指すのである。
名詞と動詞とは前述せる如く大違いである。
廣池博士ともあろう者が、
日本に於ける百科辞書の権威たる三省堂のその本に於て、
何のために斯くも明々白々の事柄を、
晦渋なる前行説なき説を述べられたか?
そこには何等かの底意が無ければならぬと思われるのである。
それには、どんな心の動きを示しているのであろうか?
それは博士の次に述べられている、
天理の意味を動詞としたことによりて、
我々には容易に博士の胸中を洞察できるではあるまいか。
博士は天理王命を一体の神と見ずに、
天理を動詞に解し、
南無を名詞に解するによりて、
博士の天理教に対する神学的独断説を構成していることが看取される。
常識を以てしても「南無天理王命」は、
天理王命に帰命すると解するのが普通である、
のに博士は、
天理と王命とを切り離して、
天理をして「宇宙の生成活動変化の有形無形の理を意味す」と述べられることによりて、
天理王命の存在を否定し、
実在を排するの結果を招来したのは博士の、
あまりにも天理教を幽玄化せんと企てたる為に、
支那思想の天の観念と理の観念を、
そのまま天理教に於ける神、
即ち天理王命の天理に付会し、
これを神道の神たらんとせしデリケートな果実である。
斯くして博士は、天理教を良く見せ、良く思わせ、幽玄なる真理ありと説かんとして、
遂に天理教の最も尊敬すべき(実際は無いんだが)天理王命を撲殺するに至ったのである。
次に、博士の次の言葉について考証を検するのであるが、その前に、天理王命の名前について述べることとする。
(続く)