大学受験生は、今、必死になって勉強なるものに取り組んでいる。

 

おそらく自身のなかでは人生で初めてであるといえるほどに猛烈な負荷を脳に与えているのだ。

 

そんな高校3年生は授業中ですら頭から湯気が出そうなほど脳みそをフル回転させているのである。

 

でもね・・・、悲しいかな、人間には「忘れる」という重要な機能が備わっているんだな。

 

そう、「忘れる」というのは人間が生きていくための「機能」であって、決して悪いことではない・・・、らしい。

 

記憶の楽観性といって、人間の脳は記憶に留めておくと不都合なこと(悲しみや苦しみの記憶)をその深刻度の高いものから順に消去していくらしいのだ。

 

だから、どんなに悲惨な状況を経験しても何とかそこから回復していく・・・、生きていくためのエネルギーを再生していく・・・、そのようにできているのだな、人間は。

 

しかし受験生にとってはこの「忘れる」という機能は困ったものだ。

 

だって昨日勉強して得た知識が、次の日の朝には脳がリセットされて消去されてしまうかもしれないのだからね。

 

何のケアーもしなかった場合、一度「詰め込んだ」ところの知識は4日後にはその90%が消えてしまうという研究報告を何かで読んだことがある。

 

でも、ちょっと待ってくださいよ。

 

 

記憶の楽観性の観点から考えた場合、消去されるべき記憶は「人間が生きていくために不都合な記憶」からだったはずだ。

 

であるならば、勉強で得た知識が数日後には記憶から完全に消えてしまうという現象は、その知識が「不都合なもの」である・・・、ということを証明してしまう。

 

つまり例えばテストのために勉強で得た知識は、実は人間が生きるためにはあまり重要ではない・・・、ということになっちゃうのかな?

 

ちょっと心当たりがある。

 

好きだった人の個人情報って、ずっと覚えていたりしないかな?

 

住所・電話番号・生年月日・・・。

 

携帯が世に出現する前なら、その情報を後生大事に「丸覚え」し続けていた人って結構たくさんいたと思うんだ。

 

実際にこのボクだって常に10人以上の友人の「家デン」番号を脳内に記憶していた。

 

忘れようと思っても忘れられない、そう、好きなものは「忘れない」のである。

 

だから結論になるけど・・・、勉強で得た知識は「好き」が動機で得たものではない・・・、

 

その知識で本当は幸せな気分になることなんてできない・・・、

 

ということをボクたちは本能的に知っている、だから忘れてしまう。

 

で、あるならば、勉強は「好き」を動機として行えばいいのだな。

 

しかし、そんなことできるわけがない、あり得ない、と思うだろう。

 

そうとは限らないぞ。

 

授業を行っていて生徒に教えることが一番難しいことって何だかわかります? 

 

なかなか生徒に入っていかない、生徒の腑に落ちにくいもの・・・、

 

それは「概念」だ。

 

「概念」ほど厄介なものはない。

 

単純な知識ならば、それはスパルタ方式でもいいなら叩き込むことは可能だ。

 

でも「概念」はそうはいかない。

 

生徒の成長過程を考慮した説明語彙の選択から始まって、生徒を形而上の世界に導くということは、例えは悪いかもしれないが、ある種の「洗脳」の下で行わなければならない。

 

教える側に絶対的な信頼性が担保されていて、教わる側にも知的上下関係の従順に耐えられる、といった前提が必要なんだ。

 

そうでない限り「概念」は本当の意味では伝わらない。

 

伝わらないから、実はボクたちの獲得してきた「概念」は、そのほとんどが自力獲得行為なんだな。

 

学校では・・・、例えば「資本主義」「社会主義」「帝国主義」「自由主義」、そして「民主主義」の「概念」は教えらえない。

 

そんなことをしている「時間がない」のも事実だが、それよりもそれをする(人的)リソースが圧倒的に欠けている。

 

そのような技術をもった職人的教師がどんどん減ってきているのだ。

 

よって知識偏重主義は助長されていくに決まっている。

 

この「概念」の重要性に本能的に気づくのが大学受験生なんだ。

 

彼らは・・・、そう、まともな受験勉強をやっている彼らは、自ずと気づくことになる。

 

一つ一つの「概念」の重なり合った、その上に真の「理解」が待っていることを・・・。

 

そこに気づいた受験生は、だから「知識」は、「概念」を知り、物事を「理解」するための重要な道具になるのであるから、それを能動的に獲得していこうという機運になる。

 

そして「知識」を駆使して知った「概念」を踏み台として、彼らは「理解」の扉をこじ開けるのだ。

 

すると・・・、そこには・・・「感動」が待っている。

 

そう、この「感動」こそが、勉強が「好き」になる「動機」である。

 

ホントです。

 

教育改革、そして21世紀型の教育を指向していくなら、まず知識偏重に陥っている現状の学校教育を見直すべきだ。

 

それを学校に期待してはいけない。

 

知識偏重に陥っている学校教育を見直すことができるのは、結局は、家庭レベルでの話しである。

 

SF的に言えば、一定レベルの知識なら、国家の責任で生まれながらに与えてしまえばいいんだよ!

 

なんてボクは思っちゃう。

 

注射一本でね(笑)。