学校に行かない、または行けない…、つまり「不登校」という現象は、今、新たな局面を迎えているように思えます。

 

 いわゆる「小1プログレム」や「中1プロブレム」というのは、それまでの子どもたちが置かれていた環境と、新しい学校での環境が「あまりにも違うこと」によって、それが子どもたちの違和感や焦り、ひいては学校そのものへのアレルギーへと発展していくことで表出されるものです。

 

 つまり「不登校」の原因に、それまでの大人たちが認知していた「いじめ」や「学力不振」とは違う、「学校の体質になじめない」ところの子どもたちの存在が明らかになってきたのです。

 

 近年の調査によれば、小学校での不登校児に該当する人数は、全国で5万人以上、中学校では13万人にものぼります。中学ではすでに全体の4%もの割合で、子どもたちが不登校となっているのです。

 

 ここで重要なのは、例えば中学生の場合、①不登校になってしまった(陥ってしまった)とする子どもたちと、②敢えて不登校を(場合によっては積極的に)選択したとする子どもたち…、という2つの前提からなる子どもたちを、一様に「不登校」とカテゴライズして「同じように指導すること」を是とする学校や自治体(教育委員会)が未だに大勢を占めているという現実です。

 

 確かに一部の自治体(教育委員会)では、不登校(特に前述の②の理由)そもののを新しい発想によって理解し、子どもたちが自ら選択した「新たな学びの手段」として積極的に認めていこうとする認識が芽生えてきています。

 

 しかしそのように「不登校」という現象を最新の社会学的・心理学的視点から改めて分析し、それを選択する彼ら(不登校生徒)が発する社会への、そして学校へのメッセージを何とか読み取ろうとするデリケートな取り組みをしている自治体は、ほんのわずかな存在であり、大半は旧態依然とした「登校させることを前提とした」指導体制の下で「不登校」は扱われ続けているのです。

 

 私の日常は、学校の先生や教育委員会の方々、それに退職校長などという方々との接点が多く、そのような学校で「子どもたちのために奮闘している」たくさんの人々から発せられる「声」も、また多く届いてきます。

 

 そういった日常の中で、(深いため息とともに)驚かされるのは、「不登校は『悪』」という先入観をかたくなに抱き続け、それを改めようとしない教員集団という体質です。

 

 ある元校長先生は、SNS上で「不登校はそれを放っておいた親の責任」「不登校生徒を学校に行かせるための指導は当然のこと」「そもそも不登校などという甘ったれた考えでは社会人として通用しない」「不登校を放置すればいずれ社会には引きこもりが増える」…等など、前近代的な発言をして、「これを拡散していただきたい!」と豪語しています。

 

 実はこういった教員って、ものすごく多いのですが、大抵の場合はそれでも「最近、なんかヘンだぞ?」という感覚…、そう、自分たち(教員集団)と社会との感覚のズレにやっと気づき始めた若い先生方も出てきました。

 

 しかし同時に、前出した元校長の主張を「よくぞ言ってくれました!」「そいうった考えの下で明るい日本を築き上げていきましょう!」などと褒め称え、礼賛するかなりの数の教員が存在するということは紛れもない事実なのです。

 

 つまり、そういった教員集団には、「実は本質的なところで『不登校』の意味がわかっていない」のではないか…、とする疑念を私はズッと抱き続けているのです。

 

 

 では、何故、彼には不登校生徒の精神状態・心理状態が分からないのか? イヤ、本当のことを言えば分からないのではなく、分かろうとしない…、つまり彼らにはそういった「不安定な精神や心理」を理解するための前提が「まったくない」のですから、理解しようにもそれをすることができない…、

 

 であれば途方にくれていればいいものを、自分たちが過ごしてきた学校生活そのものが「善」なわけですから、、、だから不登校は「悪」であり「理解不能」となってしまうのではないか…、そのようにかなりの確信をもって言えるところにまで私の「個人的な教員分析学」は勝手に進化しているのです。

 

 自分たちが過ごしてきた「学校生活そのものが『善』」…、ここに問題を解決するヒントがあります。

 

 学校の先生の「大前提」…、それは学校生活が「楽しかった」「充実していた」ところの人々です。そこには彼らなりのノスタルジーが多分に内包されています。だからそのノスタルジーを満たすためにも、彼らにとっての学校は「昔のままであってほしい」のであり、その学校で働く先生にも「昔のような先生像」を投影するのです。

 

 つまり学校の先生にとっての「学校」とは、自身を肯定する唯一無二の存在であり、その「学校」が変わらない状態であり続けることが彼ら先生の「絶対的自己肯定感」の基になっているのです。

 

 ここに「不登校」という現象が、一面ではそれを選択、または積極的に受け入れていこうとする一部の子どもたちによる「学校」と、その学校で無神経にリア充を体現する「教員」に対する「反乱」である…、とする見方は危険なのでしょうか?

 

 私にはそうは思えません。

 

 不登校生徒とその不登校に悩んでいるいくつもの家庭との付き合い(相談)の中で、不登校を選んだ子どもたちにこそ、実は歪んだ社会をまともにするだけのポテンシャルが潜んでいるのではないかとさえ思えてきます。

 

 社会はめまぐるしく変わり続けます。人の心と価値観も10年もしないうちに入れ替わってしまいます。その中にあって学校が変わらないのは、「変わらないことが良いことだ!」という風潮と「学校は普遍的な『善』を教え込む場」であるとする思い上がり(正しく思い上がっている先生ほど高評価となる)によって、学校が運営されているからなんじゃないか…、そのように思ってしまうのですが、いかがでしょう?