例えば、私たちはなぜ政府(日銀)が発行した「お金」について、その価値をナニも疑うことなく信じ続けることができるのでしょう?

 

 ちょっと調べてみたのですが、現在の1万円札を製造するのにかかるコスト(原価)は、およそ17円であるようです。それなのに、私たちはそれに1万円の「価値」を認めて市場で使っています。なにか不思議な気がしますよね。

 

 もともと「お金」=「貨幣」が信用される基準(=価値基準)は、当然のことながら、その貨幣そのものの「材質」にありました。だから「貨幣」は、長い間「金」や「銀」「銅」を材質として鋳造されていたわけで、人々も「じゃぁ、安心だよね…」といった感じで使用していたわけです。

 

 ところが海外との貿易が発達してくると、取引量が激増し、支払う「貨幣」の量もそれにつれて増やさなければなりません。すると国内で流通していた金貨や銀貨だけでは支払いに使用する「貨幣」が不足することになります。

 

 そこで、各国の政府(中央銀行)は、「貨幣」の大半を「紙幣」に切り替えて、材質そのものにこだわらずに、それを大量に印刷するようになりました。

 

 しかし、その「紙幣」の価値をどのように担保したらいいか…、その時に考えられた制度が「金本位制」というものです。ここでいう「本位」とは、前述した「価値の基準」という意味です。

 

 つまり、先進各国は国内に「金」を集めて、その「金」を貨幣とする代わりに、「金といつでも交換可能な紙幣」を発行します。これを兌換紙幣といいます。

 

 重要なのは、国内に溜め込まれた「金の量」の何倍もの紙幣を発行することが可能である…、ということです。「金本位制」では、すべての兌換銀行券(紙幣)が、一度にすべて金と交換されることを「ありえない!」…、ということを前提として成り立っていますので、貿易の発展にしたがって、各国は金の保有量をはるかに超える「紙幣=貨幣=為替」を世界に流通させていたのです。

 

 で、おわかりのように、歴史は「ありえない!」ことを起こしました。兌換紙幣が一度にすべて金と交換される…、そういった事態が起こったのです。それが世界恐慌でした。

 

 この世界恐慌で、一瞬のうちに「金本位制」の信頼度は急落し、各国は途方に暮れました。そこで登場した新しい貨幣制度…、それが管理通貨制度というヤツです。

 

 「金」を本位とするのではなく、貨幣に信頼を与える…、その本位を、なんと「政府(中央銀行)の信用度」に移し替えたのです。つまり、各国政府が発行する貨幣=紙幣の信頼を保障するに値する政府(中央銀行)であるか否か…、それが「本位」となって、改めて世界市場に貨幣=為替が流通していきます。

 

 もっとも、この段階(世界恐慌直後)での、各国の財務状況は、あまり安定的であるとはいえず、その結果、「政府(中央銀行)の信用を本位」とする管理通貨制度は、結局は上手く機能しませんでした。

 

 この貨幣(為替)に対する信用度が上手く機能しなかった…、それこそが第二次世界大戦の遠因ともなってくるのです。

 

 戦後になって、一時的に「金・ドル本位制」といったアメリカドル中心の通貨制度が世界基準となり、それをブレトンウッズ体制と言ったりしますが、それとて25年間しか続かず、現在では再び管理通貨制度に戻っています。そして、過去の失敗を糧にして、現在では各国が自国の通貨(為替)の信用を担保するような様々な政策によって管理通貨制度は定着しています。

 

 それを高いところから見守り、監視している機関が「IMF」=国際通貨基金です。ハッキリ言ってアメリカの資金がガッチリと注入されてできた機関ですから、アメリカ中心の管理通貨体制であることは、今も変わりがないようです。

 

 ところが、最近になってこのIMF体制…、つまりあくまでもアメリカを中心とした管理通貨制度に限界を感じ始めた国や一部の多国籍企業が現れ始めたようです。たぶんコロナ禍における各国の赤字国債発行による無秩序な財政出動(国民への給付金など)が、本来の「政府による管理」の下で安定的に行われているとは思えない…、そいうった危惧が管理通貨制度への不信に繋がっているのかもしれません。

 

 そして彼らは、新時代における新しい通貨制度を模索しているようです。

 

 それが「新しい金本位制」なのか、それとも「金本位制と管理通貨制度のハイブリッド制度」なのか…、あるいは国家通貨といった概念そのものが崩壊して、世界通貨、その真逆の発想としての地域通貨が、たぶん仮想通貨と連携しながら浸透していくのではないか…、そのように予想するムキもあるようです。

 

 さて、以上のことは、「お金」が人々の信頼を失った時、社会は大いに混乱するので、国家はその「お金」の信頼を担保するためのあらゆる手段を講じながらも今日に至る…、といった話でした。

 

 では、(やっと本題…、そして結論です)子どもたちがいつも親や先生から「勉強しなさい!」と言われ続けている「勉強」の本位とはいったいなんなのでしょうか?

 

 「なんで勉強しなければいけないの?」と言った子どもからの普遍的な問に対して、親や先生はどのように「その理由」を答えるのでしょうか? その答えそのものが、「勉強」に対する「本位」であると言えます。

 

 答え① 「勉強」をすることで頭が良くなり、いい高校や大学に進学することができて、その結

      果いい会社に就職することができるから。

 答え② 「勉強」を通じて、少しずつ自分のことや世の中のことが分かってきて、その「わかっ

      た!」という感情や感動が、さらに「勉強」をする気持ちを高めていけば、みんなが楽

      しく暮らせる世の中をつくることができるかも知れないから。

 

 今での日本における「勉強の本位」とは、確実に①の答えと合致します。

 

 つまり①を本位とした場合、勉強は「最終的に幸せに暮らすためのもっとも確実な手段」として捉えることができます。よってその確実な手段なのですから、「多少の苦労や競争」は仕方がない…、むしろそういった「努力」を積むことで「幸せ」を掴むことができる…、といったロジックと相性がよく、そのロジックの中から「根性論」や「忍耐論」が、一時期もてはやされたのだと思っています。

 

 よって今までの「勉強」の本位とは、「忍耐と根性と苦行」以外の何ものでもなく、そこに「喜び」など微塵も感じることができません。そもそも「勉強」といった熟語にこそ「強いて勉める」といった「苦と耐」が含まれているのですから、本位そのものに、例えば子どもが「ブラック感」を感じてしまっても、それは至極当然なことであると思うのです。

 

 そう、一部の子どもたちにとっては、勉強は「ブラックなもの」となっており、その「ブラック勉強」に敢えて立ち向かい、大人の決めた価値観(本位)を信じて「苦行」を続けている仲間のことを、実は「お気の毒様…」「そっちの世界で頑張ってね…」などといった冷めた目で捉えているのは間違いないことでしょう。

 

 では、上記②を答えとして勉強の「本位」を考えた場合はどうでしょう? この本位の正体は「わかった!とする気づき」「わかった!ことによる感動」「わかった!がもたらす心地よさ」「わかった!を他人に伝えたい衝動」…、そんな気持ちが前提になっていると考えられます。

 

 想像してみてください。

 

 ②を本位として「勉強」を続けている子どもたちの脳内には、間違いなく「セロトニン」といった「幸せホルモン」が分泌され続け、それが「ドーパミン」という「やる気ホルモン」へと変換されていきます。その「やる気」が、さらに新たな「感動」を生み、それが「セロトニン」の放出を促し…、といった連鎖が脳内に生まれ続けるのです。そこに何ら「忍耐や根性」はコミットされていませんね。

 

 逆に、①の状態で「勉強」が続いている場合、それでも「セロトニン」の分泌を期待することができますが、それとて過酷な状況下を見事に通過した、そのご褒美としての「快楽」でしかない…、だから相当な「忍耐と苦行」の末に待ち受けているものとして「幸せ」が設定されている状況です。そんな状況下では、それに勤しむ子どもたちの脳内では、恐らくは「ノルアドレナリン」といった脳内ホルモンの分泌で、「恐怖や脅迫観念」近い状態が常態化しているのではないか…、そのうように想像してしまいます。

 

 「勉強」という熟語…、これを今日からやめてみませんか?

 

 「学び」という、単なる名詞を使って、「学ぶ」といった本来的には能動的な動詞をそのまま使った工夫をすれば、子どもたちは「勉強」を「楽しいもの」「新しい発見、新しいドキドキ、新しいワクワク」といったイメージと重ねることができると思うのです。

 

 「学ぶ」という動詞に、敢えて「強いる」「勉める」といった修飾語は必要ないのです!

 

 ちなみに、「学ぶ」…、その喜びを達成した…、その後の「勉強」ならば、私は大賛成!といった立場です。