「男女平等」「ジェンダーフリー」が全盛の世の中にあって、「お母さんの『笑顔』が、子どもの成長に欠かせない」などとする論を展開するなんて、時代錯誤も甚だしいと罵られるかもしれませんが、「男女平等」という社会学的視点からではなく、あくまでも生物学的視点から子どもの成長を考えた場合、やはり現実的には、乳幼児期の大半の時間を子どもと共有せざるを得ない母親の「ココロのあり方」と子どもの成長には、疑いようのない相関関係が存在することは間違いないでしょう。

 

 乱暴な言い方をすれば、ある時期までの父親は、子育ての主役には到底なり得ず、そのことを十分に理解している夫(父親)は、だから徹底的に妻(母親)のサポートに回ることで、間接的に子育てを担っている…、そして、そういった「敢えて意識した状態にある間接的子育て」こそが、男性の主体的子育ての真の姿ではなかろうか…、そう考えています。

 

 ただ、そのことをもって、常に「指示を待つだけ」の父親であってはなりません。これは自虐的とも言える私の過去の失敗から導き出した真理です。つまり、妻(母親)からの指示を待って、それをたとえ笑顔で気持ちよく実行するだけの子育てへのコミットであるならば、それはもはや主体的とはいえず、妻(母親)の精神は微妙な状況に置かれるのです。

 

 確かに夫(父親)は、頼めば何でもやってくれる…、それだけでもありがたいと思わなければいけない…、そもそも世にはワンオペ育児を当然のように請け負い、その状態が普通になっている夫婦も多く存在する中で、我が夫の子育てへの積極的介入は、それだけで私の負担を助けてくれている…、いや、でも待てよ…、「常に指示を待つ」…、その夫になぜか苛立っている自分は何なのか? 自分は子育ての他に「夫が子育てに参加できるような状態」をわざわざ作り出してあげているのではないか? それって「夫へのマネージメント」に他ならない…。

 

 よくよく考えれば、そういった夫への気遣いが目に見えない「ストレス」になっているのかもしれない…、だから、最近の自分は疲れているのではないか? 予測不能であった子育てにも、ある種のパターンがあることがやっとわかってきた…、相変わらず精神的な緊張状態は続いているけれども、こと子育てに関しては「先が見えてきた」ようなきがするのに、この「疲れ」はなんなの? 

 

 えっ? それが夫の存在だなんて認めたくない…、けれども確かにそんな気がしないでもない。誰かが言ってた…。「夫なんて、いっそ何もしてくれない方が楽なんだけど…」と。

 

 そのように感じ始めた妻(母親)が、暗に夫(父親)の子育てへの介入を避け始める…、そしてそういった妻の微妙な心理状況を、「子育てにコミットしたい」と常々思い続けているからこそ敏感に分かってしまう夫(父親)は、「自分の出番ではないかも?」という少し寂しい思いを抱きながら、少しずつ子育ての流れの中から退場していくのではないか…(これも私の実体験ですが…)。

 

 そうして、理想的な家族の構築を求めてきた、こころある夫婦であっても、気がついてみると妻(母親)による(準)ワンオペ育児体制が完成している…、そんな家庭が多くなってきていると感じています(くどいようですが我が家もそうでした)。

 

 最近の30代夫婦は、それこそ子育て・育児には夫婦揃って積極的です。たくさんの情報にも接していて、行政サービスをも上手に機能させながら、理想的な子育てをしようといった心意気をヒシヒシと感じるのは、決してお世辞ではありません。しかし、それでも中々上手くいかない…。

 

 夫(父親=男)を責めるのは簡単です。しかし、それは少し違う気がするのです。夫とて初めから、妻の「ワンオペ育児」を奨励していたわけではないはずです。でも気がつけば、せっかく取得したはずの育児休暇も、妻(母親)の負担を根本的に軽減することもできずに、ただ「子育てを手伝う」だけの日常で消化してしまった。であるならば、後は「一生懸命に働いて、せめて週末だけは子育てにコミットしよう」…、そう思いながら仕事中心のモードに戻っていくことが通常のカタチでしょう。そこには「誰の悪意はなく」、むしろ「夫婦の互いを思いやる善意」が見て取れます。

 

 それでも妻(母親)は、「なんか違う!」と感じるのです。

 

 そして、その「なんか違う!」が、やがて「なんでだろう?」となり、母親は「子育ての悩み」に埋没していくんじゃないか…、なんだか、そういったお母さんが周囲にはたくさんいるような気がしています。そんなお母さんから、いつの間にか「笑顔」が消えていくのは言うまでもありません。

 

 

 誤解を恐れずに言えば、どうやら今のお母さんを見ていると、「真面目が子育てをしている」状態です。そう、学校に必ず一定数存在する、あの「真面目な生徒」が、そのままの「真面目」で子育てをしているんじゃないか…、そんな風に勘ぐってしまうのです。

 

 だから、そんなお母さんには「遊び」がない…、つまり子育てを「遊んでいない」んです。遊んでいないから、楽しくない…、確かに「愛おしい」し「可愛い」…、けれどもその感情は自身の「真面目」による子育てへの犠牲的精神…、それへの「対価」としての「愛おしい」「可愛い」なのではないですか?(あっ、今、相当数が敵に回りましたね…) だから、そんな風に子育てに「責任感のみ」で埋没しているお母さんって「悲壮感満載」なんです。つまり「笑顔」がない…。底抜けに「明るい笑顔」がない状態で、ただ「頑張っている」だけなんです。

 

 間違っていたら、ホント、ごめんなさい!

 

 お母さんが、明るく笑う…、天真爛漫に笑う…、それだけで「子どもも大声で笑い出す」ってこと…、知ってました? そして「笑う子」は、その「笑い」が常態化する…、つまり「笑う」ことが日常ですから、そのコミュニケーションの手段の第一段階が「笑顔」なんです。

 

 このことを私は長年保育士をしている方から教えていただきました。だから「笑顔」が最初に備わっている子どもは「誰からも愛される」のだそうです。さらに(これは私の実感ですが…)その時獲得した「笑顔」のコミュニケーションは、少なくとも高校~大学~社会人へと受け継がれていきます。それって、ものすごい資質であり、なんといっても財産ですよね。

 

 その根源にあるのが「お母さんの笑顔」…、できれば「本物でとびきりの笑顔」であるならば、そのお母さんの「本物でとびきりの笑顔」が弾ける家庭で子育てをする必要がありますね。

 

 夫(父親)は、そのために存在するのではありませんか?

 

 私とて、孫ができてからやっと気づいた境地ですから、未だ子育て初任者には分かるはずもないのでしょうが、私たちができなかったことを、今の若いお父さんなら、きっとできるはずです。

 

 夫(父親)は、妻(母親)と同じ子育て、つまり母親の代わりになる必要はありません。そんなこと所詮はできないのです。けれども、だからと言って「妻からの指示」を受けての「子育ての手伝い」程度ならば、それこジジ・ババにだってできます。

 

 夫であるアナタにしかできないこと…。それは、ピンポイントに「妻を笑顔にする」ことです。それを日常的に続けていれば、「お母さんが笑顔」になります。その「笑顔」の下で子どもが育ちます。しかも「笑顔」という親からの無形文化遺産を受け継ぐのです。

 

 さて、ではどうすれば妻が笑顔で日常生活を送り続けることができるのか?

 

 残念ながら、私には経験がありませんから、大した助言もできません。

 

 ただ、「楽しい家庭をつくる」こと…、その家庭の中心に子育ての主役たる「お母さん」を据えてみた時、何をどのようにすればお母さんが「笑顔」でいられるか…、そのことを一生懸命に考えるしかないでしょうね。

 

 それが、乳幼児期の子育てをする「男の役割」であると割り切ること…、そして、妻(母親)は、「真面目子育て」から脱却して、いつでも「困った!」「助けて!」「どうする?」を夫(父親)にぶつけてしまえばいいんです。

 

 その妻(母親)からの「ヘルプ!」を見逃さず、頑強なる防波堤にさえなっていれば…、大丈夫、アナタの家庭にも「笑顔」が溢れてくるんじゃないかな?