政治家のパフォーマンス? | 想いつくままに「コラム?」

政治家のパフォーマンス?

 

 小泉元首相が「原発ゼロ」を安部首相に迫っている。その意図は見えないが、どうも息子の進次郎議員の東北復興の延長線上にある「原発見直し」結論の布石の気がする。それならば、このパフォーマンスも親バカと理解できる。

 「原発ゼロ」を正面から反対することは誰もできない。経済界が現状では原発稼働支持をしつつも、将来的な展望として日本の取るべき政策を問われれば、むろん原発ゼロが望ましいとなるだろう。

 正面から反対できない人は、「首相時代には原発を推進していたではないか!」と批判すれば、「人は考えが変わる」とかわす。考えを改ためるということは、過去の原発推進を誤った政策と認めることであるが、彼はそれを国民に今も詫びてはいない。つまり、変わったのではなく、必要性が生じ「変えた」のだ。その背景は不明だが。

 また、「代案を具体的に示さないのは無責任」と批判されれば、「代替エネルギーは専門家が考えること」とまたうまくかわす。自分は原発には素人とだからと逃げた。ならば、郵政民営化の際に、解散して国民に政策の是非を問うたことと矛盾しないか。つまり、郵政民営化は政治の専門家集団・参議院で否決され、民営化の何たるかを十分理解していない素人集団・国民に判断を委ねたのである。彼が専門家を尊重している根拠はどこにもない。

 政治家のパフォーマンスに、私達は翻弄される。山本議員は田中正造顔負けの直訴を試み、自らの存在をアピールした。アントニオ猪木議員は、「元気があるなら何でもできる」と言って、国会を無視・欠席して北朝鮮へ渡った。

 日本は国民主権だ。民主党を選んでみんな「こんなはずではなかった!」と一斉に民主党を批判した。しかし、選択したのは主権者たる私達だ。民主党への一方的な批判は、そのまま選択した自らへの批判となるはずなのに! その人たちを、哲学者の適菜収は「B層」と呼んでいる。