母原病・過干渉と不登校 | 想いつくままに「コラム?」

母原病・過干渉と不登校

 不登校相談を受けながら、ときどき「母原病」という言葉を思い出す。1970年代の後半、「児童の身体的、精神的な病気の多くは、母親の子どもへの接し方に原因がある」という主張を久徳精神科医が発表し、その本は当時のベストセラーになったものだ。もちろん、この主張に科学的根拠があるわけではなく、その後多くの批判を受けている。

 不登校の原因は複雑に絡み合っており、原因を絞り込むことは難しい。「原因は家庭、きっかけは学校」なんて言う人もいるが、事態はそう単純ではない。不登校の子どもは、総体的に自信やエネルギーを失っている。彼らを取り巻く生活の全てに疲れ、背負いきれないストレスを抱え、悶々とした日々を過ごし始める。「動かない。話さない。関わらない。」という生活は、彼らの最後の訴えの手段である。

 それらの原因をやはり母親(父親)に限定するのは無理があるが、不登校相談に来られる母親には、確かな共通点もあることも隠せない。誤解を恐れずに言えば、それは我が子への「過干渉」である。これが不登校の原因と言うつもりはもちろんないが、我が子が不登校気味になったころの対応には、不適切と言わざるを得ない。

 過干渉はいわゆる親が子離れをしていない。親はわが子が誰よりも可愛く、誰よりも我が子の明日を心配しているのは当然である。子どもが喜んでくれること、子どもが自分の心配をわかってくれることなどに一生懸命になるわけである。しかし、それはどうも我が子へというより恋愛における恋人への対応に近い。恋愛関係の大人は基本的に互いに自立している。相手の自分への行動は、全て愛情表現と捉え、常に喜ばしく受けとめる。なぜなら、恋愛関係の営みは、愛情の確認と確信が土台になるからだ。

 しかし、親と子どもの関係は、自立した大人が自立していない我が子に自立を促す関係である。自立を促すとは、思考、判断、決定、行動を導く作業であり、ともに考え、ともに意見し合い、ともに活動する営みの積み重ねである。

 もっと簡潔な言い方をすれば、いかなる時も親はしかるべき正解を求めて、子どもに臨んではいけない。判断と決定は子どもの仕事であるというくらいの心構えが欲しい。子どもが求めているのは、「親の自分への限りない愛情」だが、その実像は「限りない信頼」である。過干渉は愛情表現になっても、信頼と言う実像は伴わない。