今日の一言。(8月8日)

無執(むしゅう)執らないこと。

8月8日。香港あたりでは最高に縁起の良い日だ。今日の一言は無執。私の体(たい)である。体とは心技体の体。この体は、身体や体力のことではない。そんなの常識。桜美林大の偉大なる先輩、池本永氏は寿司屋で言った。「心技体の体はからだとは全然違うよ」囲碁五段。今も高知でご健在なのだと思う。会いたい。

そうそう、81道場のアバターを、これに変えたのだ。記念すべき日。

 

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相手は舐めても、将棋は舐めるな。

この言葉は、兵庫県立芦屋高等学校将棋部の2ケ先輩。梶氏の言葉だ。当時の芦屋高校将棋部は優秀だった。事実上の創立者TH氏(匿名との厳命を受けている)。先輩には京都大学、大阪大学、立命館大学、姫路工科大学、甲南大学、竜谷大学、関西大学などなど。同期、後輩には大阪府立大学、同志社大学、甲南大学、神戸大学、桜美林大学、関西大学などなど。今の芦屋高校とは、ある意味、レベルが違った。

私は、卒業年次で35期。1980年の卒業扱いだ。そして、2学年先輩に梶氏がいた。梶氏は、芦屋の山手の超お坊ちゃま。一生働かなくても優雅な生活は約束されており、大学に行くのも、会社に就職するのも、社会勉強という意味合いが強かった。

梶先輩と私は仲が良く、授業が終わると梶先輩は、バイクで部室の前まで私を迎えに来てくれた。それも毎日。行く先は、西宮北口の珈琲専門店、蛮銅夢(バンドーム)だ。経営者は、偉大なる先輩,TH氏である。

蛮銅夢で、私は時々、アルバイトをし、主には客席で将棋をしていた。その指導者が梶先輩(通称、ゴジラ)であり、私は、ミニラと呼ばれていた。

梶先輩も、TH氏も私を可愛がってくれた。将棋だけでなく、麻雀、旅行、神戸新聞社の文化事業部の将棋のアルバイトなど。おっと、これを書き出すときりがない。先を急ごう。

相手は舐めても、将棋は舐めるな。梶先輩は繰り返し、このことを私に言った。意味は、そのままだが、もう少し詳しく説明しよう。

同格の相手となら、勝敗は五分。接戦の多くは一手違いになる。手合い違いだと、自陣手つかず、さらに行くと、敵陣の姿焼きとなる。

強い相手とだけ指している分には問題ないのだが、弱い相手とばかり指していると問題が起きる。どこからでも逆転できるから、将棋が甘くなるのだ。そうしているうちに、勝てなくなる。強い相手にはもちろん、弱い相手にも勝てなくなる。大局観が狂うとともに、常に最善手を指そうという気持ちと集中力を忘れてしまうのだ。

相手は舐めても、将棋は舐めるな。

私は将棋から、人生に欠かせない教えの半分以上を学んだような気がする。

私は将棋が好きだ。

また、更新が遅れてしまった。遂に、日本は、8月1日になった。そこで、81道場での対ウーロン何とか氏(四段)戦を振り返りつつ、近況その他を書いてみることにした。

 

いま、午前4時20分。時間調整である。

 

この試合は、お気に入りの「カルピコソーダ」(カルピスソーダの俗な)とキャメル6ミリのクラフト、それに、セブンイレブンのマドレーヌを準備して臨んだ。準備は万端だ。

 

線形は序盤の駆け引きの末、相穴熊になった。私は振り飛車側だ。袖飛車で一歩交換しつつ、逆サイド桂頭の75歩を入れて作戦勝ち。手数はかかったが、最後は2枚飛車で34歩の拠点を生かすつつ、33桂を入れて快勝。一手違い以上の差だった。

 

なお、持ち時間は各5分。秒読みは30秒。これは私の土俵だ。

 

あ、これは将棋(ジャパニーズ・チェス)別称、キング・オブ・ゲームの話ざんす。

 

ちょっと簡単に私と将棋を振り帰ろう。

 

将棋を覚えたのは、5歳頃。祖父、黒崎幸吉の書生だった鈴木氏に教わった。まだまだ弱かった。しかし、鈴木氏はもっと弱かった。私は全然、負けなかった。

 

第一次将棋ブームは中学生の時、内藤九段に年賀状を出したら、返事が来た。大喜びだ。しかも、末尾が「77」で当たりと来た。迷ったが切手シートに変えた。

中学3年の時は、小林君、木村君という親友がいた。放課後はいつも一緒だった。将棋世界や近代将棋、将棋倶楽部を回し読みした。そんな中学生が灘高に行ける訳がない。小林君は神戸高校、神戸大学、高校教師。木村君は県立芦屋。私も県立芦屋に行った。

 

高校時代。私は1年の時にカルチャーショックから留年した、出席日数不足だった。それでも、将棋部にだけは行っていた。全国大会に何度も行く名門。先輩には、結城氏、細谷氏などの県代表はもちろん、県代表クラスばかりがいた。初代部長のTH氏は蛮銅夢、ギルランデなどの喫茶店を歴任したプランニングハウスのドンであり、私にとっては神なのだが、なぜか実名をネットで書くなと指示されている。勿論、今でもLINEで交流がある。何しろ、体育会系将棋部がセールストークの部、だったから。

 

大学は実家が嫌で、桜美林大学経済学部商学科に行った、ゼミは木下裕一現名誉教授の時価主義会計だ。将棋は川嶋慎一氏(私の一回り上の丑だから、73歳)と渋谷守夫アマ八段(故人)、真剣師の竹尾成龍氏、細谷氏(違ったか?)などが常連で、師匠は依田有司(現プロ七段)、大学生だは、上智の山口さん、青学の諏訪さんがいた。この人達に私が勝てるのは遊びっぷりだけだったろう。特に、競輪で名取の1-4を当てて8万円をゲットして、服装が変わり人生が変わった。競艇もやった。小田原競輪にも行った。堀の内にも行った。大学の囲碁将棋部には高知の囲碁の強豪、池本永氏もいた。書き出すと切りがない。いい加減にしよう。この時、私はアマ四段。奨励会の1級には、一番手治りで2回香を引いた。実力から言って。この時が私の第一次将棋ピークだった。

 

1984年。私はアサヒビール株式会社(現、アサヒグループホールディングス)に入社。神戸支店時代の2年はヨットに夢中で将棋を離れ。1986年からの東京支社物流部時代は仕事に夢中で、将棋は余暇だった。印象に残っているのは、渋谷センターで会った奥村氏くらい。90年代は情報システム子会社には、2度目の結婚をし、長女を設け、埼玉に持ち家を購入し、暇つぶしに出た、アマ名人戦、埼玉県東部地区大会で優勝し本選に行った。思い出としては、経堂時代の島朗先生との角落ち。必勝だったのに、入玉に失敗して負けた。ドミニコ幼稚園児の長女の「落ち着いてやるんだよ」と言われていたのに負けた。親の面子がなくなった。

 

1998年、子会社の馬鹿社長が異動で来て、俺の仕事に震えて、俺を大阪に飛ばした。嫌がらせの単身赴任。俺は1999年4月に発狂してえ、徹底抗戦に出た。ああ、長くなる。急ごう。この頃通いだしたのが、十三棋道館道場。日本のアマチュア将棋の頂点だ。この話は、また今度。

 

81道場だったね。私のIDは「IK1961」。逸郎黒崎、1961年生まれだ。因みに父は黒崎勇。昭和8年生まれ。甲南大学名誉教授。NPO法人神戸日独協会の初代会長で、日独両政府から勲章を貰っている。逸郎の逸は独逸の逸。独逸留学中に生まれたから逸郎だ。弟は黒崎次郎。ああ、長くなるから止めよう。

 

8月の第1局だったな。投了図をペイントに上手く落とせない。OSは変わっていない。クロム・ブックだ。そんな訳でえ投了図が貼れない。投了図の美学を標榜する私としては由々しき事態だ。あ、もう5時半か。では、この辺で。シー、ユー、エニー、タイム、エニー、ホエア。