最近の教育業界のニュースでは、良い事と悪い事の両方が聞かれます。

「事」と言いましたが、同じ事でも人によって捉え方が違うことがあります。

それは立場や価値観が違うので仕方のないことです。

私は、「その事が少しずつ広がった時に、どのような未来が見えるか」と考える価値観です。

 

教育政策で、教員の働き方改革でいくつかの案が提示され、実際に動き出しています。

「それは本質的ではない」と思う人の気持ちも分かります。

本当に本質的ではないのかもしれませんし、その人にとって利益が出ないものなのかもしれません。

ただ、働き方改革だけ見て言うなら、時間外労働時間のデータを取り続けていますし、SNSで「こんな残業がありました」と簡単に報告できるようにもなっています。

つまり、結果がチェックできるようになっているので、「もう政策を進めているからこれ以上はやりません」とは言いづらいです。

 

教育業界に目が向けられていること、政策が打たれていることを幸運に感じつつ、実際はどうなのか意見を言うのが良いのではないでしょうか。

気持ちの部分というのはとても大きく、感謝や冷静な提案というのは、応援してくれる人を増やします。

「働き方改革をもっと進めたい」という思いは私も一緒ですが、私は「こんなに大変なのに、どうしてもっと早く改善してくれないの」とは言いたくありません。

それより、「今はここまで進んでいます。次に打ってくださる教育政策はこんなものが良いと思います」というような議論をしたいと思います。

その方が安らかな気持ちで生活できますよね。

また皆さんのご意見もコメント等でお聞かせください。

※前回の記事の続きです。

 

どのような保護者の様子は真似されやすいか、数少ない私の経験で思い返してみました。

一つ目は、「教員も共感できる『子どもの良さ』に気づいていて、それを認めて褒めている時」です。

共感できるというのが半分くらいを占めているのですが、それに加えて親が子どもを褒めている時の様子は真似されやすいです。

良い部分を話すので気持ちが上がっているところが多く、喜び方には個人的特徴があるからです。

例えば手の動きや声のトーンを真似されることが多いですね。

 

二つ目は、「特定の業界用語や一般的ではない言葉を連呼する」です。

専門的な仕事をしている保護者に多いですね。

似たようなものに、「カタカナの言葉を多様する」もあります。

最近は広まって来てますが、一時期の「エビデンス」とかはそれに当たります。

何でもその言葉をつけて話している極端な様子で真似されます。

 

三つ目は、「子どもとそっくりな仕草や話し方をする」です。

親子ですから外見が似ているのは一般的ですが、仕草や話し方が似ていることは、また違って印象になります。

(子どもにとって一番違い大人は保護者ですから、ある意味似るのは当たり前なのですが。)

これは、教員がいつも見ている子どもの仕草や話し方がそこまで目立たないものでも、保護者とセットで考えると特徴的だと感じるからです。

3つ目は一番幅が広いので、それこそ何でも真似されることになります。

 

前回から重ねて説明しておきますが、ほとんどが良い感じで真似されています。

その方々を貶める話にはなっていないことをご理解ください。

タイトルを決めて記事を書く前に検索してみたら、冒頭に書きたかったことが書いてある記事をたくさん見つけたので語源の話は止めます。

ですのでくだらない話から。

 

先日、私の勤務校で、保護者が来校して一人ずつ担任と面談する個人懇談会がありました。

そこで色々な話をしたり聞いたりするのですが、職員室ではいつもと違うことが行われています。

それは「保護者からこんな話を聞きました」という会話です。

 

これだけ見ると普段から行われているように思います。

しかし、保護者が大勢来校するイベントは稀なので、保護者から聞いた話を喋る時、臨場感を出すために保護者の喋り方を真似する人をよく見るようになるという違いがあります。

特徴的な保護者はその喋り方を教員に真似されているかもしれません。

 

そう聞くと嫌な気持ちになる人がいるかもしれません。

ただ、ちょっと堪えて続きを読んでください。

真似をするという現象は、相手に興味が無ければ起きません。

他の学校ではどうか分かりませんが、私の勤務校では、マイナスの興味(貶めてやろうという気持ち等)が動機になって真似する人はいませんでした。

多くは、「そういう仕草をするのは、子どものことでこういう悩みがあるからだよね」と、「似てる!」と盛り上がった後に冷静に分析する流れです。

 

そうやって盛り上がって分析する流れに、過去にその保護者(と当然その子ども)と関わった教員の経験の話が加わって、より多面的な視点で今後の教育について考えられます。

申し訳ないですが、私達も仕事で教育をしているので、全ての保護者の話を出す時間がありません。

こうやって話題に上がった保護者は、もし悪い話であっても色々な検討を行う希少な対象になったと言えます。

私達はわざとさらに悪くさせようとすることはないので、少し良くなるような話になると思っていただいて良いです。

もし教員が保護者の真似していることを見聞きしたら、そこでどのような話が行われているか、少し落ち着いて見てもらって良いでしょう。

 

※延々と子どもや保護者の悪口を言う教員もいます。

 仕事でそういう態度を取っている人は何を言っても直りません。

 「口は禍の元」なので、いつか自分で痛い目を見ますから放っておいてください。

教員をしていると、子どもの成長を見る機会に恵まれます。

そして、その成長の早さに違いがあることも分かります。

また、早さは変化するもので、その要因がコントロールできれば、成長の具合に働きかけることができるのではないかという仮説も立ちます。

 

先日記事に上げた研究の話も、こういった思想が元になっています。

そして、子どもや教員一人一人の個性や集団の人間関係によって、複雑な変化をすることから考えると、成長の変化を高度に保ってコントロールするのはとても難しいことが分かります。

良い手を打つためには大胆な踏み込みが必要になる場面もあります。

 

子どもは、その人の人生の中で考えると、大人の時期よりも大胆です。

子どもが一歩踏み出そうとするのを止めるのはだいたい大人の思惑です。

安全性が保てないとか、前例がないとか、周りが共感してくれないとか、止める理由はいくらでも思いつきます。

 

学校での失敗は、人生の中で考えると小さいものです。

影響は大きくなる可能性がありますが、それは後の人生の失敗の方が大きいです。

例えば、教室で失敗したら、いじめられたり無視されたりからかわれて誇りを傷つけられるかもしれませんが、(言い方は悪いですが)まだ逃げ道はいくつもあります。

大人になって失敗したら、借金を背負ったり前科がついたり生活のための金銭が無くなったりします。

学校生活を頑張ろうとした結果の失敗で、借金を背負ったり前科がついたり金銭が無くなったりはしません。

学校の失敗談のいくつかで悲惨な事例には同情しますが、それでも大人の方が大変だと言えます。

 

色々なものの仕組みとして、リスクとリターンはバランスすることが多いです。

崩れているものは何かがおかしいです。

もし教育的にハイリターンなもの(大きく成長できるもの)があるとすれば、それは安直な方法ではなくハイリスクなものになります。

例えば、災害や臨死体験を乗り越えた人間は、未経験の人間には習得しづらい感覚を得ることができます。

そこまでいかなくても、大昔から続けられている安定的な教育方法とは違う、少しリスクのある方法によってリターンを求めても良いのではないでしょうか。

教育業界によるリターンは、社会の要請に応えきれておらず、このままだとジリ貧です。

ハイリスク過ぎる方法を取らなければいけなくなる前に、目の前の少しのリスクを許容しながら、リターンを増やしていくという考えで、学校教育も文科省からのトップダウンを待つばかりではなく、現場教員の一人一人の力で少しずつ改善へ進みたいものです。

教員には、子どもや保護者にあまり見せていない一面があります。

いくつかあるのですが、今回紹介したいのは研究者としての一面です。

「研究授業」というイベントを見聞きしたことがあるでしょうか。

これまでの流れですと、主に授業技術について検討し合うための材料を提供するための授業です。

授業参観ではないのに学校の内外から教員がたくさん参観に来ていたらそれが研究授業です。

 

研究とは、これまでに行われていないことについて一歩踏み込むことです。

類似研究の検証をすることはありますが、何かしらの仮説を加えるので全く同じことはしません。

(形だけの研究授業だと、もう検証が終わっているのに同じ内容の実践をやる場合があります。その時の理屈は、「子どもが違うのだから、別の先行研究と違う特性が強く出ている子どもの集団に同じ手法がどれくらい有効か」ということを挙げられることが多いです。)

研究授業に励む(励まなければいけない)根拠は、教育基本法第九条の「法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。」という条文です。

法的根拠を出しましたが、私はそうでなくても研究授業をやる意味というのを今回の記事で簡単に述べます。

 

研究をするということは、従来の視点とは違う新しい視点で物事を考えていく必要があります。

ですので、研究として授業を組み立てると、そのどこかに新しい視点で考えられた部分が生まれるのです。

教員集団は比較的保守的なので、新しい視点をもつように圧力がかかるのは、生き方・考え方のバランスを保つためには良い効果があると考えます。

教員は未来を創る子どもと関わるわけですから、偏屈な人間にならないためにも、新しい視点をもつことに慣れていくのが良いのです。

私が好きなスポーツの一つにバスケットボールがあります。

日本でもプロリーグが発足して数年経ち、今後も続いていくような安定さを見せています。

バスケットボールは時間制限のあるスポーツで、その制限の中でどれだけ得点を決められるのか2チームで競うルールです。

アメリカのプロバスケットリーグであるNBAでは、試合終了直前に何点も重ねて大逆転をするという記録がいくつもありますが、物理的に無理な逆転不可能な点差があります。

(何度もシュートするとなると、シュートのためにボールを移動させる時間がどうしても存在するので。)

 

学校の成績もそうで、通知表が渡される直前の数日頑張っても、逆転不可能な点差というのは存在します。

通知表は数ヶ月分の成績ですから、数日だけ良くてもどうにもならないことは想像に難くないことでしょう。

もうすぐ渡されるであろう2学期の通知表を見て、「最近頑張っていたのに」という感覚を覚える子どもや保護者には、通知表の算定の仕組みを説明し直すようにしています。

 

もし欲しい評価があったとしたら、その評価を算定される期間全てで頑張るのが良い手です。

2学期で良い評価をもらいたいなら、夏休み明けの9月から頑張るのが良いです。

年間成績で良い評価をもらいたいなら、年度始めの4月からとなります。

そう考えると、子どものうちから数ヶ月単位で思考できるように練習しておくのも、大事なことかもしれませんね。

休日に出かけると、人が集まる場所では学校で関わっている(いた)人に会うことがあります。

子どもや保護者、同業者です。

同業者は何年も同じ職業やっていると度々顔を合わせるので覚えています。

今関わっている子どもも、ほとんど間違えません。

 

しかし、卒業して何年も経つ子(場合によっては成人している大人なので「人」)は、忘れてしまうことがあります。

それ以上に忘れるのは保護者の顔です。

子どもが卒業して数年と言わず、何なら現在関わっている保護者も忘れてしまうことがあります。

 

保護者の方は子どもよりも人数が多く、会う回数も少ないです。

ボランティアやお迎えなどで学校によく来ている保護者でなければ、なかなか覚えていられません。

事務的な処理で関わっただけの方だと、あちらから一方的に恩を感じられている場合もあります(それ自体はありがたいのですが)。

 

もう保護者の方や卒業生には、「教員は自分の顔を忘れているものだ」と思ってもらう方が良いかもしれません。

「覚えてもらっているかも」と期待して忘れられていた時のショックを感じないで済みます。

もし学校外で教員に話しかけることがあったなら、卒業生なら「何年前に〇〇学校でお世話になった□□です」、保護者であれば「(何年前に〇〇学校でお世話になった)□□の保護者です」なんて言ってもらえると助かります。

 

一つ良い部分として、顔は忘れていてもエピソードは覚えている教員が多いということです。

年代と相手が分かれば、思い出話ができるくらいまで思い出せます。

顔の覚え具合とは違うので、そこは期待してもらっても良いと思います。

学校外で教員に話しかけて「こんな反応でした」という話がありましたら、コメント欄等で教えてください。

子どもと、子どもたちが過ごす学校というのは、とても可能性のある場です。

大人と違って子どもは心身ともに成長著しく、どのような指導を受けて経験をするかによって大きな違いが生まれます。

ですから、社会を変えようとして学校を踏み台にしている大人に多く会います。

 

例えば行政上の成果を上げたいとか、保護者の中で自分の夢を子どもに託しているとかをよく見ます。

子どもの方にも大きな利があって、子どもたちが主体的・継続的にやりたそうな活動なら良いのですが、そうではないことが多いです。

(悪事でなければ。ただし、悪事でないことは善事であることを意味しません。)最終的に、子どもは大人の言うことを聞かなければいけないですから、大人が言い出したらやりたくなくてもやらざるを得ないことになります。

 

先日、コミュニティースクールの説明会に参加しました。

聴衆は教員だけだったので大人がどう動くという話ばかりでした。

仮に聴衆の属性がそうであっても、学校の話をするからには、子どもの様子や子どもの成長っぷりで話をしていきたいです。

コミュニティースクールですから学校関係者ではない地域の大人も大勢関わりますので、説明会の内容の30%程度は導入校での教員の反応、残りは地域の大人の反応でした。

 

子どもが自分の意思で決定し、さらにその決定が大人の満足いくものであることは稀です。

それであれば、大人が満足いく決定が自分でできるような子どもを育てる方法を模索するのが、学校らしい役割です。

それに、私が日々子どもと接していて思うのは、大人はどうしても古い価値観を引きずってしまうということです。

子どもと接することによって自分の価値観を日々顧みているのですが、そうではない大人が大勢学校に関わり(それだけなら良いが)、学校の行く末について子どもよりも先にあれこれ考えて決定していくという仕組みを聞いて、かなりまずいなと感じました。

 

子どもが大人になるのは数年・十数年先の未来です。

そこで活躍できるようになるためにはどのような人格を形成していけば良いのか、予想はとても難しいです。

一つ言えるのは、過去に最適だった人格では対応しきれないということです。

もちろん良いところもありますが、どの部分が良くてどの部分に修正が必要なのか、そういった議論は避けられません。

地域との連携は私もいくつかの良い可能性を見ていますが、もう少し違う発想で地域との連携を模索した方が良いのではないかと思う次第です。

※私の立場は、働き方改革の善し悪しをまだ見極められていない、とさせてください。

 どちらにしても、議論すべき影響範囲が広すぎます。

 

最近は多くの学校で働き方改革の話題が出ていることと思います。

私の勤務校でも先日その話し合いがもたれて色々な意見が出ました。

様々な教育活動の価値を訴えて、活動を削減しないようにという方もいらっしゃいます。

そうやって頑張ることと、(聖職で権威のある)過去の教員像を理想と考えるのは相関が大きいと思います。

 

現在の教員は、リーダー的な指導者よりも、裏方的な支援者の位置づけの方が合っていると思います。

教員だから無条件に尊敬を集める環境では無くなりましたし、子どもや保護者の意見も多様化しており個別対応が上手くなければいけなくなってきています。

「支援者に回る」と腹をくくれば、多くの学校活動が削減でき、働き方改革は一気に進みます。

 

今は、教員の立場が下落して、働き方改革は遅れています。

教員の立場が上昇することはないでしょうから、働き方改革を進めてもバランスは崩れません(むしろ取れます)。

働き方改革を進めて割を食うのは、教員の献身に頼っている子どもや保護者、その地域の住民、そして献身に生きがいを見出している教員です。

状況は苦しくても改革が進まない原因はここにあります。

 

教育は技術なので、働き方改革を進めても大丈夫な状態(教育の技術が開放されて教員免許を持たない保護者や地域の大人にも行き渡る)というのは、いつか実現すると思います。

逆に、今まで学校に押し付けてきた次世代教育の責任意識を背負うのを、保護者や地域の大人が嫌がって話が進まない未来もまた見えます。

私としては、いくつかの状況に順応できるように準備していこうと思う次第です。

その順応のための勉強自体もまた楽しいものです。

そろそろどの自治体でも次年度の採用調整が始まっていることと思います。

特に講師登録している方への連絡は冬からということが多いので、人数確保が急務の自治体からは積極的に声がかかることでしょう。

登録をしていない教員免許持ちの方にも声がかかるようになってくると、いよいよ人手不足が顕在化していると見て良いでしょう。

 

授業時間に教員が教室に常在できるのが良いのですが、そうは言っていられない状況になっている学校もあるでしょう。

その状況に対応するには、教室に教員がいなくても学習が進められる方法を取らなければいけません。

例えば、子どもの自習力を向上させたり、ICTを活用して時間と空間を圧縮したりする方法があります。

 

ただ、その促進は今までの教員集団にとっては、主流な研究分野ではありません。

教員の研究は、授業に一番重きが置かれています。

授業以外の研究をするとなると、対応には障壁が多そうです。

その障壁に文句を言っていられないほどの状況になったら、否が応でも進むとは思うのですが。