国道9号線である五条通を西に行くと、やがて物集女街道(もづめかいどう)と交差する。更に進むと峠道となる。大枝山の山中を走る老ノ坂峠である。この路は山陰地方に通じるためか、このあたりから山陰の雰囲気を感じさてくる。「大江山 いくの野の道の遠ければ まだふみもせず天橋立」という百人一首にも詠まれたのは、この付近ではないかと思われる。

亀岡市との境界線を越え、しばらく進むと南に入る小道がある。そしてこの路を更に進むと小さな鳥居の在る神社と遭遇する。首塚大明神である。この神社には、昔話にもよく登場する鬼である酒天童子が、源頼光(みなもとのよりみつ)に討たれるが、頼光の家来である坂田金時が持つ酒天童子の首が、ここで動かなくなったため、やむなくこの峠に葬ったという伝説に由来している。しかし事実は以下のことであったように推察している。
 

世は平安時代の末期、先の「船岡山と怨霊鎮魂」や「白峰神社と崇徳上皇」の項でも述べたが、この時代は戦乱の時代でもあった。特に保元の乱では、敗者である崇徳上皇側への処分は、きわめて過酷なものであった。上皇に味方した源平の兵たちは、次々に捕らえられて斬首されたが、その処刑地は、北の船岡山、東の六条河原、そして西はこの大江山(現在の大枝山)であった。  
 この大江山にて斬首されたのは、平清盛の家から五代さかのぼっての分流、桓武平氏の平家弘(たいらのいえひろ)と、息子たちである康弘、時弘、盛弘、光弘、頼弘、安弘の計七名が、後に室町幕府を開く足利氏の祖である河内源氏の源義康(みなもとのよしやす)の手により斬首された。 
 平安京の歴史は、多くの犠牲者を擁しながら平穏を維持してきた。そのような犠牲者の象徴が酒天童子であったように思えてならない。そしてそれらの犠牲者の憤りを、帝都の境である大江山に祀り上げたのが、この首塚大明神であったのであろう。

山城国と丹波国の境であるこの老ノ坂峠は、後年には亀岡城主であった明智光秀が、主君信長に叛乱を起こすために東へと越えた道であり、それが本能寺の変に発展するのである。

峠の頂に立つと、亀岡盆地のはるか遠くに、丹波の大江山へ続く山々がかすんで見えた


京都の名産品のお求めは 「特選京都」で
http://www.tokusenkyoto.jp



 上賀茂神社の北を基点とする府道38号線、通称鞍馬街道を北に行くと、鴨川の源流のひとつである鞍馬川と貴船川が合する地点近くで道が分かれる。道なりに進めば鞍馬に達し、左に行けば貴船に至る。

 この洛北の山里貴船には、不思議な伝説が多く語り伝わっているが、鬼にまつわる伝説もそのひとつである。宇多天皇の頃というから平安時代の中期、中将定平という色好みの貴公子がいた。都の美女を次々と品定めするが、心にかなうものがいない。ある時、扇の絵の見事さを競う扇競べに出された扇の絵のモチーフの女性を見て、この女性に心奪われてしまう。扇の持ち主に聞けば、この女性は鞍馬の岩屋に住む鬼の国の大王の姫君であるという。

 中将は会いたい一心で鞍馬山に篭り祈願すると、毘沙門天の導きにより、その鬼王の姫君との対面を果たす。姫君は中将の切なる思いを受け入れ、鬼の国へ伴い契った。人間と契ることを禁じていた鬼の国では、人間と交わった鬼は、鬼王の餌食となるのが習わしであった。姫君は別れに際して自分が身に着けていた縹(はなだ)紐をちぎって中将に渡した。中将は傷心のうちに自分の屋敷に引き取るが、ある日、中将邸の鉢の水が真っ赤に染まる。それは姫君があやめられたしるしであった。

 それから間もなく、中将の叔母が蓮台野で、生まれてすぐの女の子を拾い、これを中将邸に連れ帰った。この女の子は、不思議なことに左手を握ったままで、そして中将家で育てられた。やがてこの子が十三年の春、握っていた左手を開いた。するとその手の中には、鬼姫の形見の縹紐があった。その拾い子の女の子は、鬼姫の生まれ変わりであったというのである。二人は再び契りを交わし、しかも長寿を全うし、後に貴船の大明神として崇められたという。

 これが貴船神社の起こりとされる物語である。今の時代においては荒唐無稽な話しではあるが、この時代、奇跡を信じる時代でもあったのであろう。また貴船の鬼は、人間に災いをもたらす存在ではなく、逆にかけがえのない幸せをもたらす存在であったと思われ、我々が持っている鬼のイメージとは随分違っている。

このような物語伝説から貴船神社が、恋の成就を祈願する神様になったというのは、ごく自然なような気がする。



京都の逸品お取り寄せ 「特選京都」
http://www.tokusenkyoto.jp

 古来より我々日本人の生活空間の概念に、神聖で通常は立入れない場所とされるハレ()の地と、日常の生活を営むケ()とされる地、そして立入ることを嫌悪されるケガレの地の、この三つに分けられていた。これを京都でみてみると、ハレに当る地は帝が住まいした内理を中心とした御所であり、それを取り巻く市民が生活する洛内がケであり、洛内に点在する緑地を主とした野がケガレの地となっていた。

 何故、野がケガレの地と言われたかについては、貴族や殿上人を除く一般の人々の間では、現代のように墓を建てるという習慣はなく、古くは風葬に始まり、多くの亡骸は、そのような野にさらされた。このことからケガレの地とされたのである。東山三十六峰のひとつである阿弥陀峰麓の鳥辺野、北の船岡山麓の紫野(蓮台野)、西の愛宕山麓の化野(あだしの)が京の三大野として、古くからそのような埋葬地となっていた。このケガレの地とされた場所で、やがて様々な祭祀や儀礼が行なわれたことで浄化され、むしろ心の癒しを求めるハレの地に転化していった。


 今から860年前の保元元年(1156)、世にいう保元の乱が勃発した。この戦は後白河天皇と崇徳上皇の兄弟による権力争いを頂点とした戦であるが、それに藤原一族、そして源氏や平氏たち武士階級の兄弟親子が、それぞれ合い組みえたこの戦は、規模こそ小さかったが、血で血を洗う凄惨なものであったという。

 中でも清和源氏の棟梁・源為義(みなもとのためよし)の最後は、あまりにも無残であった。為義には多くの子がいたが、頼仲、為成、為宗、九郎は為義に従い崇徳上皇方に、長男の義朝だけが後白河天皇方となり戦った。戦は後白河天皇方の勝利で終わるのであるが、後白河天皇方に捕らわれた為義は、船岡山の麓で、天皇の命により我が子義朝に、生き残った息子たちと共に斬首された。義朝は天皇の命とはいえ、我が父と兄弟の首を刎ねたのである。

 先に死者の死骸は「野」に放置されたことを述べたが、この時代、死者の霊魂は、近くにある高所に赴くとされ、これのみを詣ったのである。この方面では船岡山がそのような場所とされていて、死霊を祀ることが中心となり、そこで行なわれる祭祀は、特に為義親子のような無残な死を遂げた横死者の魂を慰めることが目的となっていった。その後船岡山は、敗残者の処刑の場にされてきたが、その理由は、新たに生じる怨霊・御霊を、先輩格の御霊に威圧してもらうという考え方であった。何ともご都合主義的にも思えるが、菅原道真を祀った北野天満宮等はその最たるものかもしれない。

 「保元物語」では船岡山での為義親子の処刑が以下のように記述されている。死前にした為義は、せめと幼い子らの助命を義朝に嘆願するが、幼子たちは父の在所に行くと諭され、船岡山の小松に誘い出された。切られることを察知して逃げまどう亀若、鶴若、天王を、けなげにいさめて、西山に祈らせる兄の乙若の姿が記されている。4人の幼子の首を前に、それぞれの乳母、雑仕の侍までもが自害して果てたという。船岡山はそんな歴史を湛えながら、今も京都市内を見下ろしている。


京都の逸品お取り寄せ 「特選京都」
http://www.tokusenkyoto.jp