京都の上京区には、蜘蛛伝説に関連した場所は二つある。ひとつは船岡山の西の麓の十二坊町に在る「源頼光朝臣塚」と、北野天満宮脇の東向観音寺の中に在る「蜘蛛塚」と呼ばれる石塔である。

南北朝時代に書かれた「土蜘蛛草子」によると、大江山の鬼であった酒天童子を退治したことで知られる源頼光が、ある日家来の渡辺綱と共に、葬送の地であつた蓮台野を通りかかると、空を飛ぶ髑髏(どくろ)を見る。頼光らはその後を追うと、古びた屋敷にたどり着く。屋敷の中に入ってみると、異形の妖怪と遭遇し、やがて妖怪が変じた目もくらむような美女が現れるが、頼光はそれを妖怪と見破り切り付けると女の姿は消え、後には数的の血痕が残る。翌日に血痕の跡を辿って行くと、山奥の洞窟に至る。中を覘くと洞窟には巨大な土蜘蛛が居て、これが妖怪の正体であったことを知る。頼光らは、激しい戦いの末にこの土蜘蛛を退治するが、土蜘蛛の腹を裂いてみると、中から大量の髑髏が出てきたという話が記述されている。

土蜘蛛の話はこの他にも「平家物語」にも登場している。こちらでは頼光が高熱で臥せっていたら、身長1,2メートル程の巨大な僧が現れ、縄を放って頼光を絡めと楼とする。頼光は病床にも怯まず、刀を抜いて斬りつけると、僧は血痕を残し逃げ去った。頼光は高熱にも関わらず僧の血痕を辿って行くと、北野神社の裏に行き着く。そこには巨大な土蜘蛛が居て頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して河原に晒すと、たちまち頼光の熱は下がり病気が回復したという話である。

冒頭で述べた「源頼光朝臣塚」と呼ばれるものは、頼光の墓ではなく、蜘蛛が巣として塚とされている。最初はこの地点より西に所在していたが、理由は判らないが、昭和の始めにこの地に移転されたようである。かつて塚の傍の木を切ろうしたところ、作業にあたった人が謎の死をとげた話し等が実しやかに伝わっているところをみると、祟りの場所とされてきたようである。またもう一方の東向観音寺の中に在る「蜘蛛塚」、蜘蛛が巣くっていた塚といわれ、最初は七本松一条付近にあったが、この場所から発掘された石塔を引き取った家が相次いで潰れたため、土蜘蛛の祟りと恐れられ、大正13年にこの地に移転されたという経緯を持っている。

源頼光は、妖怪退治に纏わる話によく登場するが、渡辺綱を始めとする屈強の源氏武士団を従えていたことから、このような伝説が生まれたものと思われる。実の人物像は貴族的であったとも言われている。


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節分の厄除け行事には、色々な説が存在するが、京都の賀茂地域に伝わる豆塚伝説も、そのひとつである。京都の洛北に深泥池(みぞろがいけ)と呼ばれる池があるが、この池は氷河期からの生き残りと思われる生物と、温暖地に生息する生物が共存している、学術的に極めて貴重な池とされ、それらの植物群が「深泥池水生植物群」として国の天然記念物にも指定されている。また深泥池は、タクシーの客に纏わる怪談等が有名で、いわゆる京都の神霊スポットの代表的な場所としても有名な場所である。この深泥池を有する賀茂地域には、節分の豆まきの始まりとされる伝説が古来より伝わっている。



その昔、深泥池のほとりに、大きな洞穴があった。あるみぞれの降る寒い夜、ひとりの男がこのあたりを通りかかった。するとその洞穴の中から、ちらちらと灯りが見えた。近くに寄り中の様子を覗うと、二匹の鬼が顔で話しをしていた。「久しぶりに村へ行き、百姓どもの作った米を奪い、酒でも飲もうか」するともう一匹が「ウン、それはええ思いつきじゃ。田吾作のところの子牛も今が食い頃だし、ついでに村の娘でもさらってくるか」という話であった。男は恐ろしくなって村の庄屋のところに行き、今聞いた話を伝えた。それを聞いた庄屋も、どうしたら鬼のたくらみが逃れる術があるかが判らず、頭を抱えていた。それを知った庄屋のおばあさんは、「それなら日頃信心している基船神社に行き、相談してきたら・・・」と言う助言を聞き入れ、その夜に、おばあさんの作った納豆餅と、とっくりに御神酒を入れて貴船神社に出かけた。

神社に着き事の次第を神殿に向って訴えると、神棚に白い光が差し、「加茂の庄屋、話は解かった。そもそもあの鬼は、この貴船神社の端の穴が深泥池まで続いていて、そこを通って村へ行くことができるので、穴の出口と入り口を塞いでしまうことだ」更に続けて「鬼の目突きと言って、柊の先にイワシの頭をつけて家の戸口にむすびつけておくだ。また田の神さんには、ズイキで作ったなますを供して、鬼が来たら田を守ってもらうよう頼むことだ」とのお告げがあった。



村に戻った庄屋は村人を集め、神のお告げを伝え、村中の豆を集めて鬼退治の準備を始めた。そして二月の寒い節分の夜、穴から出てきた鬼は、村から漂ってきた美味しそうなにおいにつられ、家の前までくると美味しそうなイワシの頭があり、思わず食いついた。すると鬼は目に痛烈な痛みを感じた。柊のトゲが鬼の目に刺さった痛みであった。怯んだ鬼に対して、村人総出で鬼のきらいな炒り豆を投げつけた。鬼はほうほうの体で元の穴に逃げ帰る。そして村人は穴の出口を多くの豆でフタをし、その上に土を盛って「豆塚」と名付けた。また入り口には豆を入れた枡を埋めて「枡塚」と名付けた。



それ以降、土の中にしか住めなくなった鬼は、村人に仕返しをしようと思い地中で暴れるが、田の神の怒りをかい、モグラにされてしまう。モグラにされた鬼はそれでも懲りず、田や畑に穴を開けたという。そして節分が過ぎると、子どもらが棒や空き缶を持って「ウンゴロモチ(もぐら)や おやどのか まんまくどうの おんまえどう」と掛け声をかけて鬼を追い出したという。それから賀茂では節分になると、一銭銅貨と年の数だけの豆を包み、身体の悪いところをさすり、田んぼの四隅に置くという習慣が出来たという。そうすると不思議なことに悪いところは治り、鬼が豆と共に悪いところを持って行くと信じられてきた。この「ウンゴロモチという子どもの祭」は、今も西賀茂地域の一部に伝えられている。「豆塚」も「枡塚」も、どの場所であるかは決定に至っていないが、節分の豆まきの始まりと言われる興味をそそる伝説である。


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現在、西院の地名で呼ばれている四条通西大路付近は、その昔にはおそらく現在の天神川と思われる佐井川という川が流れていたという。西院の地名の由来は、現在の佐井通りに該当する「道祖(さい)大路」に接していたので「さい」と呼ぶようになったと思われる。文献によっては「佐井」「佐居」「西院」のこの三つの漢字が登場するが、何時の頃からか現在の西院になったようである。少し余談であるが、この地には阪急電鉄京都線及び京福電鉄嵐山線の西院駅があるが、阪急電鉄では「さいいん」と呼び、京福電鉄は「さい」と呼ぶ。

空也上人の生きた平安時代中期の西院河原には、多くの捨て子が置き去りにされたり、子供の亡骸が捨てられたりで、悲惨な状態であったという。空也上人はそれを哀れんで石の地蔵菩薩を刻み供養したという。その地蔵のひとつと思われるものが、西院の高山寺(こうさんじ)にある水子供養地蔵である。また空也上人は、それらの様から「西院河原地蔵和讃」を編み出し唱えたという。  

和讃とは、仏の教えに節を付けて讃える、いわば仏への賛歌である。「コレハコノ世ノコトナラズ 死出ノ山路ノスソ野ナル サイノ河原ノモノガタリ キクニツケテモアワレナリ」という文言で始まる「西院河原地蔵和讃」は、実に哀れを誘うものである。その内容を要約すると、親に先立ち死んだ子が、生前は親に大事にされたのに、今は賽の河原で野宿をし、雨に打たれ、雪の降る夜は凍え震え苦しんでいる。そして母恋し父恋しと、胸が裂けんばかりに泣くのである。しかし親は、子がそのような苦しみを受けているのを知らず、子供が生きていた頃を思い出し、嘆き悲しむばかりであった。そして死んだ子供は、賽の河原で親の平穏を祈って石を積むのであるが、しかし夜になると鬼が来てこう言うのである。「やい子供、汝らは何をする、娑婆と思いて甘えるか、娑婆に残りし父母は、追善供養いたせども、ただ明け暮れの嘆きには、酷や悲しや不憫やと、親の嘆きは汝らが、苦げんを受くる種となる」と鬼は子供に向って親の女々しさ情けなさを責めるのである。更に鬼は子の親を責めると共に子対しても「汝ら罪なく思うかや、(母の乳が出ないとき、お前は泣く泣く無理を言い、また父が抱こうとしたとき、母の胸を離れようとしなかったではないか)」と鬼は子の罪も責めるのである。そんな嘆き悲しむ子の様を見て、地蔵が登場が現れ、そして子に対してこう言うのである。「汝ら命短くして冥土の旅に来たけれど、今後はわれを冥土の父母とたのめ」と幼児を懐の内にかき抱くという話しである。

この時代、栄養事情も悪く、病気をしても治療らしき治療も受けられなかった庶民には、幼児の死亡率が高かったことを推測すると、子に先立たれた親がこのような和讃に救いを求めた背景が垣間見えてくる。子を亡くした親に対しては、親が悲しむ限り成仏できないことを説くと同時に、無罪であるかに見える子の死も、決して無罪ではなく、子は子としての罪があったことを説いて、親の不憫な心を静めるという二重の意味が込められているように思われる。



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