世界遺産であり、観光客の人気スポットである清水寺には「音羽の滝」と呼ばれる滝がある。清水寺を訪れた方なら、一度は足を運ばれたことと思う。この滝は、紀州の那智の滝や日光の華厳の滝のような豪壮なものではなく、奥の院の建つ崖の下から三筋の白糸のような水筋が流れ落ち、古来より霊水とされてきた。この滝の水は「黄金水」或は「延命水」とも呼ばれ、美味しいことから、京の名水のひとつに数えられ、滝の源泉は音羽山の山中深く、千年以上湧き続けているといわれている。  

流れる三本の水にはそれぞれ意味があり、大きくは「仏・法・僧への帰依」で、左から慈悲、真ん中が利、右が知恵のご利益があると言われている。つまり「行動」「言葉」「心」の3業の清浄をあらわし、滝自体が神聖な信仰の対象とされたきた。また最近では時代背景か、それが「学業成就」「恋愛成就」「延命長寿」、またもう一説として、特にここを訪れる修学旅行生の間では、左が「学問上達」、「健康・長寿」、そして「良縁成就」と置き換えられているとも小耳にはさんでいる。確かに学問は自分の努力次第でもあり、また長寿も自らの健康管理の問題とも言え、自分ひとりではどうにもならないのが恋愛であることを考えると、思春期の彼ら彼女らにとっては、ここを訪れる大きな意味があるようである。
 滝のご利益は諸説あるにしても最初に挙げた説が、観世音菩薩を本尊としている清水寺の成り立ちを考えると、本来の意味であると思われるが、言い伝えも時の変遷の中で推移して行くのもいたしかたないであろう。そしてこれも昔からの言い伝えとして、三筋の水を一度に全て飲むと、ご利益が消えてしまうというのもある。欲張ってはいけないとの戒めから出たものと思われるが、足りるを知ることを忘れかけた我々には、大いなる警鐘に思われる。



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10円硬貨の表の絵柄で有名な宇治平等院には、宝蔵と呼ばれる建物があった。南北朝の動乱で、建物と中の収納物は消失されたが、現世のさまざまな珍宝奇宝が収納されていたという。  

その中に源頼光により刎ねられた酒天童子の首が収納されていたという。何故、丹波の大江山で退治された酒天童子の首が宇治に存在したかについては、室町時代初期の作とされる「大江山酒天童子」によると、頼光ら一行は、酒天童子を始めとする鬼の首七つを駕籠にかき、都に入ろうとすると、「毒鬼は大内に入ることあるべからず」との達しが出る。しかたなく洛外の路を行くが、天皇・上皇を始め、摂政関白までもが、鬼の首を見たさに牛車を連ねたという。そしてその首は天皇の命により、宇治平等院の宝蔵に収められ、それ以来「宇治の宝蔵」のひとつに数えられたという。



宇治平等院は、藤原道長の別院宇治院を伝授したその子の関白頼通が、永承7(1052)に阿弥陀如来を祀る仏殿として鳳凰堂を建立したのに始まるとされる。後に子孫の師実、忠実らにより法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂、護摩堂、円堂等、一切経堂が建立された。

この一切経蔵には、経典のみならず、摂関家に代々伝えられてきた宝物が収納され、その中のひとつが酒天童子の首であった。これらを世に「宇治の宝蔵」と呼んだのである。この一切経蔵は、毎年三月三日の一切経会の折にのみ開扉されるというものであった。それ以外には、新たに藤原氏の長者が決まった場合で、「宇治入り」と呼ばれる儀が行なわれ、宝蔵の扉が開かれたが、その場合も余人の立ち入りは禁じられ、中の宝物は秘中の秘とされた。

その宝物の中に、酒天童子の首が何加えられたかは定かではないが、この他にも坂上田村麻呂が討ち取ったとされる、奥州の鬼王と呼ばれた高丸の首も収納されていたという。



鬼とは、「意にそぐわぬもの」という意味もあるが、この時代、大和朝廷に従わなかった北方の先住民を指す場合が多かった。また後には、朝廷にとって不都合な者は、ことごとく「鬼」とされ、従順の者と区別された。そして定住と従属を拒否した山の民や、権力闘争に敗れた貴族も「鬼」の烙印を押された。「宇治の宝蔵」に収められていたという鬼の首は、現存していないが、歴史は勝者によって作られることを考えると、生きる場を失った虐げられた人々が鬼とされ、葬り去られたとも思える。もしそうだとしたら酒天童子も高丸も、この時代の犠牲者のひとりであったのだろう。これが真実としたならば、今一度歴史を見つめ直す必要があるかも知れない。



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 平安京の出来た時代、九条通り千本付近には、都の入り口とされた羅生門があった。その羅生門跡と記された石碑の近く、京都市南区唐橋羅城門町に「矢取地蔵」と呼ばれる地蔵尊を安置したお堂がある。この地蔵尊には今から千二百年程さかのぼった平安時代初期、嵯峨天皇の命で朱雀大路をはさんで建設された、東寺と西寺にまつわる話しが伝わっている。当時の平安京は、朱雀大路の東側が右京、西側が左京と呼ばれ、両寺院は、それぞれ右京と左京の王城鎮護の寺として、さらには東国と西国を鎮護する寺として建設された。東寺には真言宗の開祖である空海が、また西寺には守敏という僧がいた。


 天長元年(824)は、日照りが続き、一般庶民は飢えと乾きにあえいでいた。時の天皇であった淳和天皇は、そのような惨状に心を痛め、都の水の発する場所とされていた神泉苑で、空海と守敏の二人に雨乞いを命じた。先に守敏が祈願するが雨は降らない。続いて空海が祈願すれば、にわかに天はかき曇り、三日三晩雨が降ったという。そして雨乞いの勝負は空海に軍配が挙がった。一方の敗れた守敏は腹の虫が収まらず、空海を羅生門近くで待ち伏せ矢を放つ。そのとき墨染めの衣の僧が現れ、代わって矢を受け空海は難を逃れたという。空海の身代わりになったのは僧に化身した地蔵尊といわれ、その後人々は、空海を救った地蔵尊としてお堂を作り、「矢取地蔵」の名で今に至ると伝承されている。この地蔵尊には右肩にその矢傷が残っているともいわれている。


にわかに信じがたい話であるが、この時代、おそらく東寺西寺共、如何に政治の中心、つまり天皇の信認を得るかに注力していたと思われる。しかも呪術が政治にも取り入れられていた時代、呪術、祈祷を積極的にとりいれた空海の真言密教が、国家的宗教として登用させるための方策として、或は宗教上の正当性のアピール手段として、このような話が流布されたのではないかと思われる。また一方の守敏という人物は、この話以降歴史の中に登場することはなく、西寺も礎石を残すのみで、伽藍を誇ったとされる面影は何ひとつ残っていない


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