京都の歴史を訪ねる-上生菓子① 京都の歴史を訪ねる-上生菓子②
 花鳥風月、雪月花、それら日本の四季の美しさを見事に映した京都の上生菓子は、まさに和菓子の真髄といっても過言ではないだろう。特に京都で作られる上生菓子は、京菓子ともいわれ、独自の伝統と意匠が営々と受け継がれてきた。

 そもそも京菓子は、茶の湯と共に発展を遂げてきたが、茶席に供せられる菓子は、それぞれの菓子職人たちが、茶席のテーマや茶人の意図を汲み取り、創意工夫の中から生まれた。故に茶席は、茶人と菓子職人との、まさに一期一会の真剣勝負の場でもあった。
 そして京都の上生菓子の最大の特徴は、ひとつのお菓子の中に、四季の風景が凝縮されていることだ。その伝統は今も脈々と受け継がれ、今日も現代の菓子職人の手で、新しい世界が創り出されている。

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思い切って何かを行なうときに、「清水の舞台から飛び降りる」と俗に言うが、江戸期には実際に多くの人が願をかけて、断崖13mの清水寺の舞台から飛び降りたという。清水寺に残された江戸期の古文書である「成就院日記」によると、その数は234件にものぼったという。

記録は江戸前期・元禄七(1694)年から幕末の元治元(1864)年までだが、抜けている箇所もあり、実際は148年分が残されているという。それによると男女比は男が7で女が3、最年少は12歳で最年長は80歳、そして年齢層としては、1020代が大半を占めたという。そして何と飛び降りた人の8割が命が助かったということが記録されている。

何故にこのような命がけのことを多くの人々が行なったついては、清水寺の本尊である観音に、命を託し飛び降りて助かれば願い事が叶い、成仏出来るという庶民信仰が、言い伝えのように広まったものと思われる。

他にも平安時代後期に書かれた「宇治拾遺物語」よると、平安時代の警察組織であった検非違使が、見回りのときに無頼の者と遭遇し、舞台に追い詰めるが、相手はここから飛び降り、逃げ去ったということが記されているが、これがどうも最初に飛び降りた人物と思われる。

また近松門左衛門が書いた歌舞伎の演目である清玄桜姫物(せいげんさくらひめもの)の中でも、この清水の舞台から飛び降りる場面がある。物語は清水寺の僧清玄が、高貴な姫君桜姫に恋慕して最後には殺されるが、その死霊がなおも桜姫の前に現れるという内容ある。その物語の中で桜姫が笠を差して舞台から飛び降りるという場面がある。今とは違い、情報の少なかった時代背景を考えると、この芝居の影響なども少なからずあったのかも知れない。


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六角通り東洞院西入るに、通称「六角堂」と呼ばれる寺院がある。正しくは紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)というが、京都の人には「六角さん」という名称で親しまれている。本堂が六角形をしていることからこの通称が付いたようである。寺の由緒書では西暦580年頃、聖徳太子により建立されたと伝わる。大阪の四天王寺を建立する際に、用材を求めてこの地を訪れた際、持仏としていた如意輪観音が重くなり、動かなくなった。太子は観音がこの地に留まることを希望したと考え、六角形のお堂を建て観音を安置したという。この六角形の意味は、仏教でいう人間の迷いの原因とされるものを六根と呼ぶが、「耳」「眼」「鼻」「舌」「身」「意」を指す。この六根を清めることを目的として六角堂は建てられたようである。またこの寺院は、華道の家元・池坊の発祥の地としても有名であり、西国三十三箇所の札所でもある。

この六角堂の境内に「へそ石」と呼ばれる、これも六角形の石がある。昔から京都の中心を示す石といわれ、「京の要石」とも呼ばれてきた。この石の言い伝えは、桓武天皇が京都へ遷都し、平安京の造成の時、六角堂の位置が道路の中央にあたるため、天皇が遷座を祈願したところ、お堂が15メートル程北に移動したが、その際に取り残された石といわれている。


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