平等院
4月下旬に平等院へ藤の花を見に訪れました。
平等院は何回も言っていますが、藤の花が咲いている時期に行くのは初めて。
藤の花が好きな私はずっと行きたかった時期でもあります
初めて平等院に触れるので、ちょこっと平等院の説明もします
概要
山号:朝日山 開山:明尊 開基:藤原頼通 宗派:単立
歴史
もともと宇治の地には平安時代初期から貴族の別荘地でした。
平等院の地ははじめ、光源氏のモデルともされる源融(とおる)が営んだ別荘がありました。
その後、陽成天皇や宇多天皇にわたり、朱雀天皇の離宮となります。
そして朱雀天皇の孫である源重信が所有し、次に藤原道長の別荘「宇治殿」になりました。
よく「藤原道長が平等院鳳凰堂を作った!」といわれますが、詳しくたどると少しずれています
道長の時代は「別荘」で、この別荘をお寺にしたのが道長の息子・藤原頼通です
平等院が創建された背景には、頼通が生きた平安後期の「末法思想」という考え方があります。
お釈迦様が亡くなって500年(1000年説も)は「正法」という時代。
正法は「お釈迦様の教えが正しく守られて、それを実践すると悟れますよ」という時代です。
正法の時代がおわって次の500年~1000年間は「像法」の時代。
「お釈迦様の教えや修行は正しく行われているが、悟りを得るのは難しい…」という時代。
そして像法の次は末法。お釈迦様の死後2000年以降の時期にあたります。
末法思想とは「仏法がおとろえて世の中が乱れて救われない」という考え方です。
日本では永承7年(1052年)に末法の時代に入るとされていました。
(※正法、像法、末法の時代の年数には諸説あります)
そして末法の時代に入る前年、1051年に前九年の役という内乱が勃発します。
疫病もはやり「本当に末法の時代にはいるんだ」とみんな焦りだします。
その中で末法思想を恐れる人々の救世主ともいえる書物が注目を浴びます。
それが源信僧都が書いた『往生要集』
この『往生要集』には「死後、極楽の世界へ行くには何をすればいいのか!?」が書かれていたのです。
そして人々は死後、極楽の世界へ行けるように様々な事をします。
お寺を建てたり一日中お経を唱え続けたり…
時の権力者・藤原道長も『往生要集』を参考にして死を迎えています。
道長は京都御所の東側、現在は清浄華院があるあたりに「法成寺」というお寺を創建していました。
そこに9体の阿弥陀様を並べた「九体阿弥陀堂」を建立し、極楽浄土の世界を模した庭園も作庭しています。
道長は自らの死を悟ると、極楽浄土があるとされる西の方向に向かって
阿弥陀如来像の手に結ばれた五色の糸を手に握り
お釈迦様が亡くなった格好と同じ、頭を北に、右腕を下にした状態で
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら亡くなっていったといいます。
そうした末法思想が信じられた時代。
頼通は宇治の別荘をお寺に改め、『観無量寿経』に基づき西方極楽浄土をこの世に再現しようとします。
そして現在の平等院の庭園や建物、仏像が完成します。
鳳凰堂の前にある池は、極楽浄土に行く際には阿弥陀如来の目の前の池の上に浮かんだ蓮の葉の上にのって、浄土に行くという考え方を表したもの。
鳳凰堂の内部は極楽浄土を観想するために壁画や扉、仏像まで作っています。
ちょっとこれ以上書くとキリがつかないので、ここまでで一旦終わります(笑)
混乱の時代、なんとか死後の世界は極楽に!という平安時代の貴族の人々の気持ちが集約したのが平等院なんです😌
藤
今回メインの藤💜
少し見ごろは過ぎていましたが、とても美しかったです!
平等院の藤の大きな特徴は花房の長さ!
地面すれすれまで花が咲き、その姿から「砂ずりの藤」ともよばれます。
種類は「ノダフジ」です。
近年インスタでバズり始めた撮り方を私もやってみましたw
藤を手前に、鳳凰堂を奥に撮る撮り方です
かなり有名な構図になったため、閉門間近でも多くの人がこの画角を求め並んでいました
青紅葉でも素敵でした
これからもずっと人気のスポットとなるので、写真撮影は忍耐が必要ですね
他の角度からでも藤も鳳凰堂もきれいに見れるので
見ごたえは十分です
アクセス
📍宇治市宇治蓮華116
🚃JR宇治線「宇治」徒歩10分
🚃京阪宇治線「宇治」徒歩5分