大徳寺 黄梅院
5月19日まで特別公開中の大徳寺黄梅院にいってきました
概要
開山:春林宗俶 開基:織田信長 宗派:臨済宗大徳寺派
歴史
永禄5年(1562)、織田信長が初めて京へ入洛します。
その際、父・信秀の追善供養のため、大徳寺98世・春林宗俶(そうしゅく)を迎えて小庵「黄梅庵」を建立したのが始まりです。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変によって信長が亡くなると、
10月に羽柴秀吉が大徳寺で盛大に信長のお葬式を行います。
その後、秀吉は黄梅庵を徐々に増築していきます。
秀吉は主君の塔所としては小さすぎるという理由から、この時に信長の塔所として大徳寺山内に「総見院」を建立しています。
天正17年(1589)に当時の住持・玉仲宗琇(大徳寺112世)に帰依した小早川隆景が黄梅庵に庫裡や鐘楼、客殿などを寄進し、この際に「庵」から「院」へと改められ、「黄梅院」と号するようになりました
黄梅院はその後、小早川氏の宗家・毛利氏の保護下におかれ、毛利氏の京都での菩提寺となります。
黄梅院は戦国時代を生きた数多くの人物とゆかりがあるお寺です
鐘楼に使用されている釣鐘は加藤清正が献上したもので、
鐘楼は益田元祥(もとなが)によって建立されたもの。
千利休が院内の庭園「直中庭」を作庭しています。
非公開ですが、毛利元就・小早川隆景・織田信秀・蒲生氏郷の墓所もあり、戦国時代好きにとってはたまらない寺院でもあります
よく見るとところどころに毛利家の家紋を見つけられます
本堂と破頭庭
本堂は重要文化財に指定されており、天正16年(1588年)に小早川隆景の援助により建立されました。
内部の襖絵は重要文化財に指定されており、作者は毛利家の御用絵師・雲谷等顔(うんこくとうがん)。
室中の間の「竹林七賢図」や檀那の間の「西湖図」、礼の間の「芦雁図」など44面が残っています。
本堂の南側には「破頭庭(はとうてい)」という簡素な枯山水庭園があります。
天正年間(1573~92)に作られたとされています。
手前半分が白川砂で海が表現され、奥半分は苔一面に覆われ陸地を表しています
白川砂の模様は代々引き継がれているそう。
奥半分の苔部分には、左から「石→2石→椿」と並んでいます。
一番左側の石はお釈迦様とその説法を聞く人間とを表し、
真ん中の2石は観音菩薩と勢至菩薩を表しています。
一番右側の木は椿で、光格天皇お手植えのもの
白い花をつけ「擬雪(ぎせつ)」といわれる種類です。
下鴨神社にも同様に、光格天皇お手植えの「擬雪」が残っています
自休軒と直中庭
自休軒は、大徳寺開山・大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名とした書院です。
直中庭は自休軒の南庭。
千利休が62歳の時に作庭と伝わる、苔が一面に広がる池泉回遊式庭園。
秀吉の軍旗「千成瓢箪」を象った空池を手前に配し、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰った朝鮮灯籠が据えられています。
庫裏と閑坐庭
閑坐庭は本堂と庫裏の間にある枯山水の坪庭。
奥に見える滝石から流れでた水が川となり、海となって破頭庭に流れ着く、という作りだそう。
重要文化財に指定されている庫裏は、天正17年(1589年)に小早川隆景により建立されたもので、禅宗の庫裏としては日本最古級
400年以上前の建物とは思えない程、キレイでした…
床は劣化しないように板の上に畳が敷かれています。
庫裏は入り口でもありますが台所の役割もあります。
火を使用するため、庫裏は火事になりやすく残りにくいんですね~。
現在改修が行われている妙法院(東山区)の庫裏もほとんど同時期に建立されたものです。
なかなか無い400年の歴史をもつ庫裏を、是非見に行ってみてください
苔のすばらしさ
写真撮影NGのエリアに入った途端、あまりの美しさに思わず声がでました。
この時期に行ったのが大正解💮
苔がもっふもふで生き生きとしていていてとてもきれいでした!
一輪のお花が緑の中に立派に咲き、苔の緑を更に美しくしていました(花の種類詳しくないので謎)
写真NGですが、それもそれでお庭の鑑賞に集中できます
写真として残したいと思うこともありましたが、それ以上に心に深く刻まれた
素晴らしいお庭でした
御朱印はご住職がいらっしゃるときはその人を見て感じたことを詩にしたためた御朱印をいただけます
今回は運よくご住職がいらっしゃって、私だけの唯一の御朱印をいただけました
拝観情報
📅公開期間:2024年3月30日(土)~5月19日(日)
⏰拝観時間:10:00~16:00(受付終了)
💵拝観料:大人800円、中高生400円、小学生以下無料(保護者同伴)
⭕御朱印:有
アクセス
📍京都市北区紫野大徳寺町83-1
🚌市バス「大徳寺前」徒歩5分