みなさんこんにちは!

テルテルです。

コロナウイルスのせいで京都でもガランとしている観光地を見かけますが、今こそ京都観光へおいでください!そうだ京都へ行こう!

でも手洗いとマスクは大事です!

さて、今日から二条城編スタートです!

二条城東南隅櫓

ー概要ー
名称 世界遺産 元離宮二条城 (二条城、二条亭、二条離宮)

アクセス
市営地下鉄東西線二条城前下車すぐ JR京都駅からは同じく地下鉄烏丸線で烏丸御池(からすまおいけ所要時間およそ10分)で乗り換え太秦天神川(うずまさてんじんがわ)行きに乗り一駅(2分)

現在の二条城は徳川家康やその孫家光が築城したものが残っています。約400年の歴史の中で徳川時代には、家康の将軍宣下(しょうぐんせんげ 天皇から将軍に任命されること)受け、諸大名のお祝いを受けた場所であり京の都の抑えとして、更に150年程前には大政奉還の舞台ともなり、歴史の中で大きな役割を果たしました。
正に徳川時代の始まりと終わりを見届けた城ですね。
その後時代を経て離宮や京都府庁、大正天皇即位大礼の饗応所や迎賓館としても使用されました。

本丸御殿は現在修復中で取材時にも修復作業が行われていました。

戦国時代、京の都は諸将の憧れの的であり、かつ京都を支配することは、日本全土を支配するのとほぼ同義でした。

都を抑えることで天下統一の名目が立ち、天皇の朝廷が京都にあり、東西日本の中心点であり、交通、経済、文化の要所で戦国時代の戦が続く地方より安定した地盤を築ける為でもあります。

当時二条通は室町幕府もその拠点を築く程の大路でした。古の大内裏も近いこの地は京都を支配するにはもってこいの場所だったんですね。京都市内には関所のような役割を持つ山城がいくつかあったそうですが、旧市域には二条城、三好氏の洛中支配の拠点、西院城(さいのしろ)くらいしか無く(現在は堀跡が道になっているくらいしか遺構は残ってません)、重要な拠点でした。

その為、二条通沿いには足利義輝による二条御所(武衛陣の御構え)、義昭の住んだ織田信長による二条御所、信長によって造営された二条新御所(二条殿/二条御新造)→〈本能寺の変では織田信長嫡男の信忠はここに籠城し、妻子と共に果てた。〉などが現在の二条城とは場所も全く異なるが、色々建てられた。

豊臣秀吉も聚楽第完成前は二条新御所を改築して使っていたそうです。

また、平安京の神泉苑(しんせんえん 平安京の天皇の為の禁園)この城域に少し被ったところにあったそうで、二条城前駅のブースには神泉苑の発掘品も展示されています。

徳川家康はこの地に京都支配の為の拠点を天下普請(てんかぶしん 諸大名に命じて金や労力を使わせて造らせる)で築いた。現在でいうところの城の東側のみであったが5層の天守を上げた立派なお城でした。

しかし、同じ直轄の徳川の城よりはかなり小ぶりで防備も薄く、京都滞在中の将軍を狙って攻め込まれたら数日しか持ち堪えられないでしょう。でもこれは家康公の思いとしては御所の天皇や公家へ必要以上の威圧を避けたのではと考えます。これは二条城が長く「よそもんの城」と京の人から嫌われたことからも推察できます。
また都に余りに堅固な城があることで万が一、攻め取られた場合は奪還するのが大変であるということ、また万が一の場合でも援軍が到着する迄の間の数日持ち堪えられるくらいで良いと家康公が側近に言ったともされます。



京都の区画からは少し傾いているのが地図を見るとわかりますがこれは当時最先端の方位磁石を使って南北を測り造らせたのですが、これは磁北が真北から数度ずれているのをそのまま使った為です。(平安京は真北を中心にできている)ある意味これが京都の人々が二条城を嫌った理由かもしれませんね。

家康公は伏見城を秀忠公に譲り、ここに滞在をするようになりました。大人になった豊臣秀頼も加藤清正を連れ母淀殿の反対を押し切り御殿(後の二の丸御殿)で家康と対面。
二条城を本拠として大阪冬の陣、夏の陣を戦いました。

三代将軍の家光公は公家や諸大名への抑えとして二条城を大改修。本丸に当たる部分を拡張させ、輪郭式(りんかくしき ドーナツ状の縄張りを持つ城)更に現在では天守台が残る5層の天守を上げ4隅に櫓をあげた本格的な城郭を作り上げました。
天守などは廃城とした伏見城の櫓群や天守を移築したと伝わります。
因みにこの時に二条城から家康公のブレーンであった金地院崇伝によって移築された唐門が今でも信愛のすぐ近くの秀吉公を祀る豊国神社(ほうこくさん/とよくにじんじゃ)にあります。

家光公が将軍となった翌年、寛永元年には後水尾天皇が二条亭へ行幸された。天守に登られたという記述もあります。
その時、行幸される帝を上から見下ろすのは失礼やという理由でわざわざ櫓門であった門を薬医門(やくいもん 門に屋根がのった2脚のシンプルな門)に改めたとあります。
二の丸御殿
天守台

豊国神社(元二条城唐門)

大手門


30万もの軍勢と共に入洛された家光公を最後に将軍上洛の機会は無く、幕末の14代将軍家茂公の長州征伐、慶喜公の大政奉還まで待つことになります。
二条城には城番(一時期城代も)が置かれ、京都所司代(しょしだい 時代により職務内容は変わるが、京都及び畿内5ヵ国+近江・丹波・播磨を管轄、治安維持、行政の取りまとめ等を行った)二条城北にその屋敷を構え、二条城は用いられることはなかった。

大火で1750年には天守が落雷で焼け落ち、御太鼓櫓が天守の代わりとなる。1788年の大火で隅櫓や本丸御殿は焼失。1860年には大地震により櫓が傾くなどの被害が出る。
築城250年以上経つと城は荒廃し、修築は行われたが焼失した建物は再築されることはなく、本丸御殿も家茂公上洛前に仮御殿を作らせたのみにとどまりました。
御太鼓櫓

二条城天守台からの空
(これだけ開けている京都の空は二条城と御所以外にはないので凄い素敵でした。)

第二回長州征伐では家茂公は軍勢とともに上洛し、二条城、後に大阪城入りし朝廷工作と10万の軍勢を督戦し、指揮をとった。(家茂公は征伐中に大阪城で死去)

その後、15代将軍となった慶喜公は二条城で大政奉還を行い、徳川幕府の歴史は終わりを告げることとなる。一昨年?大政奉還150周年で大規模なイベントがあったのは記憶に新しいですね。プロジェクションマッピングや金魚をモチーフにした催し物があったのでテルテルも行きましたw

戊辰戦争、明治維新を迎え、天皇を中心とする国づくりが開始され、無用となった全国の城は破却される等の憂き目にあったが、全国で唯一今日まで現存している御殿建築の二の丸御殿は京都府庁舎として使用され、現在の府庁舎(旧本館)が完成して移転していくと、宮内省管轄となり、離宮に指定された。

本丸には桂宮の御殿が移築され本丸御殿になり、これは只今修理が行われているので見れませんが、離宮の趣を止める建築物です。



御所の紫宸殿で行われた大正天皇の御大礼(たいれい 即位式のこと)では清流園という庭園が増設され饗応の儀が二条城で執り行われた。

私のご先祖の話では戦後、進駐軍(GHQ)の戦闘機が降りてきて二条城の前のスペースに駐機させたこともあったようです。

そして恩賜二条城として京都市が管理する城趾として現在に至ります。


いかがでしたでしょうか?

二条城は戦に巻き込まれることなく、京の都を見つめ、築城400年以上経っても残っています。

建築史上においても歴史においても重要な二条城を後世に伝えたいと思います。

それでは次回、後篇では内部を巡ります!!!乞うご期待!!!

大好きなあなたへ
テルテル