京大野球部の2代目バランサー#25小城くんから紹介を受けました3回生捕手の#22水野琳太郎です。学歴だけではもちろん人は判断しませんが、学歴は外見と同じくらい第1印象に響くと思っています。学歴があれば少し安心といったくらいでしょうか。このように考えるきっかけとなったのは、高校の時に監督さんから常々「お前らは社会の上澄み。社会に出れば人の上に立つ人間になるはず。やけん指示待ち人間の対極であれ」といわれ続けたことに起因します。今思えば、高校の段階で「社会の上澄み」なのであれば、京大に入った今は「社会の上澄みの上澄み」なのでしょうか。絶対にそんなことはないので謙虚にいきましょう。ね、#40庄くん

 

 

もしタイムマシンができたら、過去と未来どっちに行きたいか

このような質問が出された時みなさんならどのように答えるでしょうか。未来を選んだある人からは「競馬の結果をあらかじめ知っておいて、現在に戻った時に大儲けする」とか、過去を選んだ人からは「過去に失敗した物事をもう1度やり直したい」といった理由が出てくることでしょう。

自分から質問を出しておいて申し訳ないですが、僕はこの質問が苦手です。苦手というよりもこの質問の意図が分からないという方が正しいかもしれません。ひねくれもので天邪鬼な僕は、「もし過去や未来に行って、今現在生きている世界線が通っている過去や未来と異なる出来事が起こってしまえば、世界線が大きく変わりパラレルワールドが発生してしまうのではないか」と思ってしまうからです。「空想の話なのだから真面目に考える方が馬鹿だ」という異論は受け付けません。ただの個人的な考えで、誰かに強制させるつもりもありません。ただの21歳大学生の独り言として読んでくだされば幸いです。

 

宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方。(Wikipedia「宿命論」より)

 

知らず知らずのうちに僕は物心ついた時からこの考え方で物事を考えてきました。小学生の時からこの考え方をしていたせいで、周りが熱中しているようなものに対して流されることが少なく、良いようには「大人びている」、すこし悪いようには「冷めている」「面白みがない」「とっつきづらい」と同級生から言われることが多かったように思います。

熱中している物事がないわけではありませんでした。プロ野球には今以上に熱中していて、新聞のスポーツ欄を見すぎて小学生が到底読めないであろう難読苗字も読むことができるくらいにはのめりこんでいたし、放課後にはグローブとイナズマイレブンのカセットが入ったDSを持ってサザエさんのカツオ君のように公園で友達を遊ぶのが習慣でした。

しかし思えばこの頃から日常の物事を考えることが好きで、日常的に哲学的なことを考えるようになっていました。「勉強する意味」や「自由とは何か」について父親と話す機会が多かったこともその理由の1つかもしれません。その哲学的な思考の過程で、いつか「どのような考え方・信念を持って生きるべきか」と考え始めるようになったのです。様々な考え方を試してみた結果、自然と考えているのがこの宿命論の考え方でした。さらにこの考え方をしているおかげで心が救われた部分もあります。この良い点は後述します。

 

まず僕の思う宿命論についてすこし語ってみようと思います。

生まれた瞬間から死ぬ瞬間までのその人が生きる世界線での出来事、思考過程、行動、言動がすべて決定されている。」これが僕の考え方の大前提です。つまり僕が京都大学硬式野球部でこのような内容のキセキを書いていることも、僕が幼いころから読売ジャイアンツのファンであったこと、生まれた場所が香川であったこと、僕が男性という性別で生まれたことも、ひいては僕がアメリカ同時多発テロの8日後に生まれたことも、すべて地球が創造された瞬間から決められていた世界線であると考えています。もっと詳しい例を挙げると、試合中にストレートを要求するかスライダーを要求するか迷った挙句、選択した球種でヒットを打たれたとしても、迷う過程もその球種を選択したという結果もヒットを打たれたという結果もすべて変えられない運命なのです。つまりあの場面で違う球種を選択していた世界線は存在しないのだから、その選択を後悔する必要はないと考えているのです。これは振り返りをする必要がないと言っているのではありません。何が悪くてどのような要因がどのような結果を招いたのかという振り返りは絶対に必要であり、このことを勉強材料として次の機会に活かすことは非常に重要です。ただ、悪い結果を招いた選択をした自分を無意味に責める必要はないのです。だから僕は「たられば」の世界線を考えることはほとんどないし、そもそも「たられば」の世界線は存在しない(存在していないと考える)のです。

この考え方のメリットは、自身に悪いことが起こったとしても気持ちのブレが少なくなることです。女の子に振られた時も「もともと振られる運命だったのだからしょうがない」と切り替えられて、他の物事に支障をきたすことはありません。この考え方はメンヘラ#8西村くんに見習ってほしいものです。旅行の前日の夜中に闇(病み?)ストーリーを投稿するのはやめましょう。

 

このように考えている僕にもこの考え方が正しいのかどうかずっと葛藤しているし、この考え方のある欠点?疑問?に対して明確な答えを出せないでいます

 

その疑問というのが、「悩んでいる先の不安に対する結果は1つしか存在しないはずであるのに、人はなぜその結果に向かって最善の結果になるよう努力を続けることにどのような意味が存在するのか」という疑問です。

この疑問の意味自体が分かりにくい方のために例を挙げると、受験勉強の例がわかりやすいでしょう。誰しも第1志望の学校に受かりたいという思いと、第1志望の学校に受からないのではないかという不安を持っています。実際は生まれた瞬間から第1志望の大学に受かるか落ちるかは決定されており、それはどれだけ受験勉強を頑張ったとしても変わらない、というよりそのように悩んでいることすらも決まっているのです(と僕は考えています)。しかし、当たり前ですが、人は合格するために最善の努力を行おうとします。(正直その努力を行うすらも決定されていることですが、努力の過程ではそのようなことは気にも留めずに生活する)結果がわかっている物事に対してものすごい熱量を持って努力をするというのは、客観的に見れば馬鹿馬鹿しいけれど、その努力にどのような意味があるのかということを漠然とさせたまま生きることももちろん可能で、その方が一般的ですが、すこし考えてみてほしいと思います。

 

この疑問に対する僕の答えは「結果は存在するものの答えの見えない問いに対し、自身で必死にもがき目標に向かって道筋を立て努力をし続けることが後々自分の人間性を形成するエネルギーとなるから」です。

 

「なんなんだ、その安易で抽象的な答えは」と思う人もいるでしょう。でも僕は大まじめに言っています。今まで数学や理科などの答えが明確にある受験勉強を多く行ってきたがゆえに常に答えやセオリーを求めたがる傾向にある京大生にとって、答えのない問を考え続けることは不慣れで苦手なことです。しかし、社会に出た際には答えのある問のほうが圧倒的に少ない。大学野球をしている今でもそう思うのですから、よほど大変なことなのでしょう。しかし先に言ったように、人生はすべて決められているのですが未来を変えようと画策し努力することは可能です。この努力という経験は未来から見ればただの過程ではありますが、この経験を感受性豊かな若い時に積むことで様々な感情や考え方に触れることができ、いわゆる「教養深い」、「思慮深い」人に近づくことができるのではないでしょうか。漫画「バガボンド」の沢庵が言ったように『すべては決まっていて、それでいて自由』なのです。

 

 



 

 

 

この写真は18枚しかない僕の写真フォルダに唯一あった野球以外の写真です。写真がなさ過ぎて写真の選択肢などありませんでした。いつかに作った夏野菜キーマカレーです。僕の家に来てくだされば食べたいお料理振舞います。

 


次は#Mgr島岡さんです。周りの男子校出身の同期がMgrの方々を下の名前で呼んでいることを横目で見ながら、入部してから2年以上経った今でも「島岡さん」と呼んでしまっていることと敬語で話しかけてしまうことに申し訳なさは一応感じています。奥川や内山などヤクルトの同世代の選手をこよなく愛する彼女の愛にあふれたキセキに期待しましょう!