#15北山くんから紹介を受けました、連盟委員4回生の#Staff嘉田です。北山くんは自分と入部の時期が一番近く、勝手にシンパシーを感じていました。偵察などでチームに貢献している彼には頭が下がります。
 
最後のキセキに何を書こうかというのはちょいちょい悩んでいたことなのですが、大学卒業後の自分の進路も決まった今、高校から今までの自分自身について書き記しておこうと思います。自分語りはあまり好きではありませんが、表向きに普段喋っていることは思考したことの10分の1くらいなので、自分が「ここ」にいたということの記録も兼ねて、できる限り思い起こして残しておきます。
分量はだいぶ減らしたつもりですが、それでも1万字近くになってしまったので、時間を無駄にしたい方だけどうぞ。連盟のネガキャンなら誰にも負けません。
 
自分が連盟委員になるきっかけは高校時代にまで遡ります。高校は家から自転車で15分くらいの膳所高校に通っていました。高校の決め手は、小中からの友達が多くいたからという消極的な理由です。体調不良とかで休むと謎の敗北感を感じてしまうので、中学・高校は結局1日も欠席しませんでした。面倒な授業などは山ほどありましたが、友達と喋る場所としての学校が楽しかったのもあります。後に自分を連盟委員に誘ってくれる、OBの宮島とは一年の頃に同じクラスでした。
生まれてこの方、塾や予備校には通ったことがなく、自分の勉強の中心は学校の教材と課題でした。そもそも勉強自体好きでも楽しくもなく、将来への責任感と、試験や課題の締め切りがあるからやっていたというだけでした。そんな自分にとって、コロナによる緊急事態宣言は致命的でした。これを読んでくれている大体の人よりはお兄ちゃんなので、高2の3月から高3の5月いっぱいまで休校でした。この間、特に締め切りに追われることもなかったので、漫画アニメゲームドラマ映画に没頭し、勉強は徹底的にサボりました。
休校が明けて以降、表向きの試験の順位自体は以前とあまり変わりませんでしたが、学力やそのモチベが明らかに落ちているのは内心感じていました。もともと大学自体に魅力を感じておらず、体裁を保つために勉強をしているふりをしながら、心の中では高卒での就職も考えていました。第一候補は長距離ドライバーでした。ネトフリ見ながら運転してお金をもらう生活は、内向的な自分には魅力的でした。
 
そんな考えのやつが受かるほど、大学受験は甘くありませんでした。合格に足りなかった点数的にはあとちょっとだったのと、時間割に縛られるのが嫌だったので、予備校には行きませんでした。1年も勉強したくなかったので、プロ野球のシーズンが終わる秋くらいまではシャーペンを握らず遊び、11月の秋模試の前くらいからリハビリがてら勉強していました。一般的に宅浪は病むらしいですが、自分は悠々自適に過ごしていました。自分的にはネトフリトラックまでの繋ぎくらいの感覚でした。
そんな考えのやつが受かるほど、大学受験は甘くありませんでした(2)。何回か受けてればそのうち受かるだろと思っていましたが、不合格発表の日に母親が仕事を早退してきて、泣いていました。母親を泣かせたのは人生で2回目でした。自分が気楽に過ごしている裏で、家族や友達には心配をかけているのは分かっていたので、ここで初めて後悔しました。
就活がマジで嫌、という理由だけでもともとは医学部を受けていたのですが、就活する覚悟を決めて、志望を工学部に落としました。工学部の合格点には結構余裕があったので、現状維持を目標に、2浪目も勉強は秋から始めました。相変わらず舐めていますが、ネトフリトラックの夢を諦めて勉強した自分に隙はありませんでした。
無事に第一志望の情報学科に合格しましたが、形式的なおめでとうを片付けた翌日に、家族で東京ドームにWBCチェコ戦を見に行きました。落ちてたらどうすんだという話ですが、そんなことは考えない一家です。



 
合格発表の3日後くらいに、宮島から最初の連盟委員への勧誘が来ました。大学ではノンバイ・ノンサーで院まで行って、推薦とかで楽に就職しようと思っていたのですが、この時に思ってもいないのに「スタッフに興味はある」と言ってしまったのが、人生での大きな転機だったようです。人生の1周目じゃ分かるわけありませんでした。
大学に入ってからは、とりあえずGPAを取っておかないと院進含めた今後の選択肢がなくなるのが分かっていたので、1年の春は社会復帰も兼ねて学業に注力しました。90人ほどしかいない情報学科で、この学期は多分次席でしたがここがピークです。3月から毎月、宮島からの連盟への勧誘は来ていました。断れない性格と、入るのに比べれば大学の単位余裕だなという思いから、8月に連盟委員として入部することを決めました。天国と地獄の始まりです。天国は今も捜索中ですが…
 
1年の秋リーグは周りについていくのに必死でした。昔から野球部の友達はいましたが、実際に野球部、それも怖そうな大学の体育会に自分が入るということで、ただただ怒られたくないという思いしかありませんでした。それまで書いたことのないスコアも、秋リーグ前の夏の甲子園とプロ野球を見て練習してから見学に行きました。
見学に行った秋リーグの初日に、球場の備品が壊れてしまったみたいで4年生がキレていたり、自分1対先輩2の圧迫気味の面接があったり、早朝から晩までの活動だったり、なかなかやばいところに入ろうとしているなと思ったのをよく覚えています。面接でやりたい部署を聞かれた時に、即答で「広報以外でお願いします」と言ったのに、実は最初の部署は広報担当でした。



加入後は、「やります。やり方わかりません。教えてください。」を毎日ひたすら唱えていました。「分からない」と言って怒られないのは最初くらいだ、と当時は思っていたのでがむしゃらに色々手を出していました。どうやら頑張りすぎたようだと気づいたのは1ヶ月が経つ頃でしたが、今更手を抜いたらそれも怒られそうで怖かったです。
リーグ戦後半には、それまでの頑張りが評価され、部署関係なく幅広く頑張って欲しいという先輩方の意向で、審判担当に異動になりました。これを決めてくださったのは、2学年上の近大OBの山下さんと1学年上の同大OGの篠井さんでした。お二人は最後まで連盟委員としての自分の模範でした。今の自分があるのはこの異動・お二人ありきだなと強く感じていて、本当に感謝しています。
 
あまり考えずにただ目の前のことをこなしているうちに、怒ったり褒めたりしてくださった4年生が引退し、年が明けて2月、春リーグの準備が始まります。自分が初めて参加した連盟の会議は、#Staff美啓ちゃんのキセキでも触れられていたこの2月の常任理事会でした。この会議は、自分にとっても3つの意味で大きな転機でした。
会計の先輩が欠席している中で、まだ1回生の美啓ちゃんが、座っているだけの理事に質問攻めにされているのを、自分はただ見ていることしかできませんでした。部署も違うし、自分は入ったばかりだからしょうがないと思う一方で、何も分かっておらず、何の助けにもなれない自分の無力さが情けなく感じられました。何もできない自分が嫌でした。膨大な連盟業務の全てを、1人で把握できるとは思いませんでしたが、それでもなんでもできる自分を目指したいと思いました。せめて自分が連盟にいる間くらいは、学生の矢面に立てる存在・「こいつさえいればとりあえず大丈夫だろう」と周りに思われる存在でありたい。そう思い始めたのがこの会議でした。
この会議は会計面以外でも色々とっ散らかった2時間の会議だったのですが、この会議の議事録を書いた、書いてしまったというのが2つ目の転機です。議事録なんて書いたことはなかったですが、分からなかった部分を理解するためにも何度も録音を聴き、阿南合宿に行くバスの中で何時間もかけて議事録を書きました。これが当時の副理事長2人によくまとまっていると褒められたのが運の尽きでした。以後、雑に法人化した尻拭いをしながら法人運営を任されることになりますが、法学や登記の知識を0から身につけながら進めていくのにはかなりの時間を費やしました。
3つ目はシンプルに、理事とは馬が合わないなということでした。少なくとも1年生よりは長い間連盟にいるであろう理事が、会議でも法人運営でも学生になんの助け舟も出さない姿に腹が立ちました。心の中の干からびたゆいPが、「これがお前らのやり方か」と糾弾していました。いつかなんらかの形で、一矢報いたいと思いました。先輩に迷惑はかけたくなかったので、自分たちの代になるまでは、どんな理不尽も笑って流して耐え忍んで、知識・力を蓄えることを決めました。
自分が出た会議の録音は基本的に全て残しているのですが、最初のこの会議だけは残す気になれなかったので消してしまいました。
 
春になって進級し、2年生になりました。良い意味で一番楽だった1年でした。
4月に春リーグが開幕して、1節わかさに7人も見学が来ました。その全員が連盟に入り、先輩と同じくらいの人数の後輩ができました。1つの代では過去最多です。見学で見た第一印象は、デカかったり、髪が茶色かったり、初対面同士で仲良さそうだったり、(当たり前ですが)選手上がりだったりで結構ビビってました。全員で結託してクーデターを起こされたら真っ先に逃げようと心に決めました。そうは言っても、クーデターを起こされないようにするのがお兄さんの嗜みなので、2節以降はできるだけ全員に声をかけて媚を売っておくようにしました。話してみると、(この時はまだ)みんな素直で良い子だなって感じでした。チョロい先輩です。
審判担当の業務を引き継がれながら、特に担当が決まっていない仕事も積極的に引き受け、チャレンジリーグ、5リーグ、高校野球などの業務も幅広くこなし、怒られることもほぼなく成長できた1年だったと思います。後輩に教えるのも、出来る部分からしていました。自分が何に取り組むにしても、誰かしら頼れる人がいて、責任もあまり感じずに過ごせたというのが非常に大きかったです。連盟の空気も前の年よりはるかに軽くて過ごしやすいものでした。
この年の京大も、春秋で勝ち点を3つ取るなど歴代で見ても上位の成績で、応援している側としても楽しみでした。宮島の登板機会もあり、ヒヤヒヤしながら見ていましたが、抑えた時は本当に嬉しかったです。



 
また次の春が来て、3年生になりました。浪人中を含めても、人生で一番しんどい1年間でした。
この1年で連盟委員に5人の後輩ができました。この年は特にビビりませんでした。というより、自分に下を見る余裕がなかったという方が正しいです。2年間フル単なのに、授業が毎週15コマ+課外で十数時間やらないと終わらない分量の課題があり、夏からは就活も兼ねた長期インターンを始めました。どうしても時間は足りなかったので、プライベートの時間から削られていきました。
連盟の業務は、審判の部分はOBの花谷くんもいてくれて、前の年と同じ感じで良かったのですが、それ以外の部分がかなり負担でした。1学年上の先輩はいましたが、理事の仕事が雑になった分、先輩方も大変そうで、なかなか頼ることができませんでした。春リーグは美啓ちゃんが留学でいなかった分まで、来年に備えて気負っていました。帰ってきてくれてからは本当に気が楽になりました。
自分が1年の時、連盟加入の面接で、「平日は授業に行かせてください」と言ったのをよく覚えていますが、3年になって以降は平日のリーグ戦も、(はぶられた以外の)会議も、授業を飛んでまで全て出ました。いつの間にか授業よりも何よりも、連盟業務を最優先にしている自分がいました。自分がいなくてもどうとでもなっていたと思いますが、自分がいないせいで何かあったらと思うと休めなかったです。「なんでもできるように」という願いは呪いでしかありませんでした。
8月のプレス発表の頃に、連盟委員が使用していたYahoo!メールが使用できなくなりました。そもそも複数人で使う仕様ではなく、それまでにも似たような状態はあったのですが、以前使えた復旧方法がこの時には使えなくなっていました。15年来使用していたアドレスなので移行も簡単じゃなく、ベストではないにしてもベターな選択はしてきたつもりだったのですが、防げたとしたら自分だけだったと後悔し、多くの人に迷惑をかけたことを、かなり引きずりました。中学の部活引退の時以来、8年ぶりに号泣しました。周りから見れば「その程度で」と思われるかもですが、自分の選択に起因して、身内以外の複数人に迷惑をかけたのがただただ悔しかったです。結果としては約1ヶ月後に復旧できましたが、連盟に残ったままの古い部分を整理して記録に残すというのは、以後の活動の主眼の1つになりました。
秋リーグと並行して就活も進めていました。院に行く選択肢もありましたが、自分の条件に合う数社だけ選考を受けて、ダメだったら4年の7月に院試の勉強をして、連盟業務にできるだけ時間を割ける道を選びました。結果として割とすぐに就活を終え、その後の研究室選びも一番自由に時間を取れるところにしました。まさかそんな選択をするとは入学時の自分は思ってもみなかったでしょう。
 
しんどかった秋リーグが終わって自分たちの代になりました。
残り1年でやりたいと思ったことは山ほどありましたが、一番は連盟委員の業務とその環境の整備でした。コロナ禍以降、ろくに引き継ぎもされずに、雑に繰り返しているだけの業務や無駄な部分というのは数多くあります。1人の連盟委員ができるのは最大でも4年分の仕事で、真に自由に動けるのは最後の1年くらいです。何かをなすには短すぎますし、先例を学んでいるだけで時間切れになります。だからこそ、連盟の事情や全体像を早いうちから把握できる仕組みを残したり、定型業務の負担を減らしたりできれば、今後の連盟委員は新しいことや他のことにも取り組みやすいかなと思っています。地味な仕事ですが、新しい企画などに前を向いて取り組んでいきたいという学生は今後もいると思うので、自分は後ろを向いて、そういった人たちを支えられればと思いました。
また、自分のしてきた活動の引き継ぎも、自分に与えられた役割でした。どの学生、どの理事よりも、連盟業務とその理解に時間を費やした自負はありますが、必要な部分をきちんと引き継げなければただの自己満足にすぎません(まぁ未遂で終わっても3年前に戻るくらいかという諦観もしてはいますが)。「膨大な定型業務がありながらも必ず4年で全員入れ替わる」という組織なので、自分の引き継ぎだけでなく毎年の引き継ぎを、簡単だけども精度良くできるような仕組みも残したいなと思っています。自分の名前なんかは残ってほしくないですが、自分のしたことが改良されながら、10年後の連盟委員の役に立つ形で残ってくれれば、自分の最後の1年に意味があったと思えるんじゃないかと思っています。それに意味があるのかは、今はまだわかりませんが、来年以降への祈りみたいなものです。
そんなことを考えながらでしたが、冬はあまりモチベを保てませんでした。理由は色々ありますが、ただ目の前のことをこなすので精一杯でした。気温が上がるとマシになりましたが、仕事も増えてきました。
 
最後の4月を迎えて4年生になりました。どんな1年だったのかはまだわかりません。
3人の1年生が連盟に入ってくれました。美啓ちゃんが「純粋で素直で心が洗われる」と言っていたのが印象的でした。まるで純粋で素直じゃない人がいるかのような。後輩たちに直接ビビることは今年もなかったですが、わかさでたまたま見かけた選手登録名簿に、早生まれの選手が「2008年」生まれと書いてあって三度見しました。ビビりました片手じゃ足りません。とっとと引退することを決めました。
春リーグ、5リーグ、大阪大会、甲子園と忙殺されているうちに、気づいたら9月でした。4年間で一番雑ですが一番早かったです。やりたいと思ったことの半分くらいしかできていませんが、果たして引退までにどれだけできるのでしょうか。
理事と揉めまくって逆に避けられたり、口の悪さが中学の頃くらいに戻ったりと、色々ある日々を過ごしていますが、最近はちゃんと楽しいです。周りに気を遣わせたり、負担を増やしたりしているのは承知の上ですが、それでも一番楽しい1年だと言えそうです。問題が起こっても後輩だけで解決できている姿を見ると、嬉しくも寂しくもあります。お別れの時は近いです。




京大野球部としても、今のチームで勝利を掴んでほしいなと日々応援しています。
 
たくさん書き連ねてきましたが、総じて楽しかったと言える大学生活でした。大学野球の勝ち点の仕組みも知らなかった自分が、将来にまで影響するくらい一番力を注ぐことになるとは、入学した時は思ってもみませんでした。自由度の高い大学生活を、野球に捧げている選手たちがいて、それを支えている人たちがいること。大学に入らずネトフリを見ているだけの自分では知る由もなかったと思います。その大学野球に自分も携われて良かったと、心から思っています。
京大野球部、連盟委員でいられたからこそ、自分は大学生でいられました。高校生の自分に「大学も悪いものじゃないぞ」と、今なら胸を張って伝えられます。そう思うきっかけとなった、関わったすべての人に感謝しています。
 
お世話になった人へ
多すぎるので一部だけです。
両親へ
こういうのはあまり読まないだろうけど、いつの日か目にするかもなので一応記しておきます。
3姉弟の中で一番迷惑をかけた自信がありますが、かろうじて真っ当に生きられているのはあなたたちのおかげです。3人の中で一番どうしようもなかったクソガキは、立派な23歳児になりました。あなたたちの息子でいられることを誇りに思います。うちに関する今後の面倒ごとと財産は全て自分が貰い受けるので、ゆっくりと余生を過ごしてください。
 
OB宮島へ
連盟委員に誘ってくれたこと、本当に感謝しています。色々と文句を書き連ねましたが、今は楽しかったと心から思えています。自分の人生にとっても、良い意味で転機となる誘いでした。自分にできることがあればなんでも言ってください。それはそうと、球場に来にくい理由があるみたいですが、1回くらい見に来てください笑
 
OB筧くんへ
自分が入部を決めてから8月に歓迎会をしてくれて、そこからの1年半はスタッフ側に筧くんがいてくれるだけで本当に頼もしかったです。自宅のリビングでずっと使っている充電器が御社の製品だと最近気がつきました。またご飯奢ってください。
 
OB花谷くんへ
自分が審判業務を取り仕切るのは今年で3年目くらいだと思っていますが、それでも花谷くんがいてくれた時は相談もできて過ごしやすかったなと思っています。就職したら自分の方が年上なので奢ります。
 
#Staff芳野へ
入部した時から何かと一緒に作業することが多くて、自分以上に深く考えてて、それを横文字でアウトプットするやつだなと思ってました。言語化能力は流石の一言です。色々と話し相手になってくれてありがとう。
 
#Staff大西へ
いつも明るく声をかけてくれていたのが内心結構嬉しかったです。大西の笑顔と口の悪さにはちょっと癒されていました。また焼肉行きましょう。
 
#Staff環ちゃんへ
毎回たくさん話しかけてくれるので、話しやすかったです。周りに左右されずに明るさを貫いていたのはすごいなと思っていました。残り3節、勝ち放送できることを願っています!
 
美啓ちゃんへ
この4年間で一番助けてもらって、一番相談に乗ってもらったのが美啓ちゃんでした。美啓ちゃんが担当してくれていた部分は、手放しで信頼していて、なんの心配もしていなかった反面、もっと手伝ってあげられれば負担を減らせたかなぁと思った部分もあります。色々と悩んでいたことに対しても、もっとどうにかできればと後悔しています。それでも、同じ代に美啓ちゃんがいてくれたから自分も頑張ろうと思えました。無理やり自分の仕事を引き受けてくれた時も嬉しかったです。本当にありがとう。気を遣わせてばっかで申し訳ないけども、今はちゃんと楽しめてます!口悪くてごめんなさい!
 
#Staff阪野へ
問題児その1です。と言いつつも、自分が全体で手伝いを呼びかけた時とかは、真っ先に連絡をくれていたのが阪野でした。色々とありがとう。最近は余計なことを言うようにしているので、あえて伝えますが、人の心は理科のような再現性には乏しいです。毎回同じようには行きません。締め切りを過ぎる人がいたり、ちゃんと伝えても忘れられたり、分かってもらえないことがあったり、それでも「良いよ」ってサラッと言いながら、カバーしていくのが人付き合いです。会計面だけでなく、新しいことを始めるにしても、来年はリードしていく立場になると思います。周りを許せるゆとりを持って、「自分の送る言葉には必ず受け取り手がいるんだ」ってことを意識してほしいなと個人的には思っています。応援しています。
 
#Staff小山へ
問題児その2です。と言うと、傷つきながら怒るのは分かっていますが、期待もしているのでストレートに言います。持論ですが、n+kが1以上の人は、一度挫折を経験して乗り越えている分、強気になりがちな気がしています(n=2が言うなというのはごもっともだが)。この古びた組織で自分の主張を通そうと思うと、1人だけでは限界があります。学生でも理事でも、根回ししたり、賛同してもらったりして初めてうまくいく部分もあります。正論棒で殴るだけじゃダメなのは、今年の自分の姿からでも分かってもらえたと思います。目的のための手段として、(最終的に自分は捨てましたが)謙虚さが生きてくる場面もあります。日頃の行いというやつです。立派な大きな目標のために、やらないといけないこと・やりたくないことも着実にこなしながら頑張ってください。遠回りでもやるべきことから一歩ずつです。期待しています。
 
連盟の同期へ
遅れて入ってきた自分を温かく迎えて、たくさん教えてくれて本当にお世話になりました。自分たちが見てきた連盟の代の中で、一番バランスよく、分業しながら頑張れたんじゃないかと思っています。自分が急に無茶振りで振り回すことがあっても、受け入れてくれて本当にありがとう!みんな優しくて、とても楽しい連盟になっていたと思います。あとちょっと頑張ろう!
 
連盟の後輩へ
割と読んでくれているみたいなので最後に書いておきます。個別に伝えたいことは山ほどあるので別の機会にして、全体的な話をします。
まずはこの1年間だいぶ好き放題してごめんなさいと、そんな自分を受け入れてくれてありがとう。チャレのスコアの添削とか、急に送りつける長文とかは、自分がいなくなった後のためにも読んで欲しいという期待と、読んでくれないだろうなという諦めをセットで送っていたので、読んでくれていることが何かの拍子にわかった時は本当に嬉しかったです。
正直、この1年で連盟の辞め方までちゃんと考えたのは、(2008年生まれにビビったのを除いて)3回ありました。良いのか悪いのか今は分かりませんが、どれも未遂で終われました。3回とも辞めたくなった理由は違いますが、辞めるのやめた理由は同じでした。
自分がいなくなっても、必ず連盟は回っていきます。それまで重しになっていた自分が消えて、その分まで新しく誰かが頑張ってくれるはずです。だからこそ自分が連盟を辞めない意義は、その「誰か」の負担を減らすことでした。自分が残って、自分のこれまでをちゃんと引き継げれば、自分の時の負担よりはマシなものを引き継げると思っています。ちゃんと良いものを引き継ぎたい、そう思わせてくれたのは後輩のみんながいてくれたからです。なかなかにみんな個性的ですが、どの代も誰も欠けることなく無事に終わって欲しいなと、(辞めたがってた奴のセリフじゃないですが)わがままながら思っています。
とても楽しかったです。本当にありがとう!!

次は#14菅野くんです。怪我に悩まされながらも、投手主任としてチームを引っ張る彼のキセキにご注目ください!

こんにちは.#16櫛田から紹介を受けました4回生の#15JPです.

めっちゃいい紹介文を書いてくれましたね.見直しました(≧▽≦)

彼の紹介にもあったように,苦しいことが多かったです.

 

特にリーグ戦期間中,スタンド応援や偵察のために往復4時間かけてほっともっとや南港球場まで行くのは,正直辛い時もありますよね.そんな中でも,試合中はみんな真剣に応援していてすごいです.だから,僕もこれを甘んじて受け入れるしかないんですよね.


それに,悔しさやしんどさはスタンド部員だけが感じていることではないでしょうから,チームのために最後まで応援頑張りましょう!!!

 

サムネ写真が必要なようなので,このキセキとは全く関係ないですが,適当に写真を貼っときます.



書きたいこともなかったので僕の最後の夏について書きます.一言で言うとケワシイ夏でした.

 

ここから先は,暇な人だけ読んでください.


僕はこの夏,腰をけがしました.最近ようやく練習に参加できるようになったのですが,投げるとまだ痛いです.

小学生の時から今まで野球をやってきて,野球ができなくなるようなケガをしたことがなかったのですが,大学野球生活の最終盤は,けがによって非常に苦しく悔しい経験をすることになりました.

 

ケガをしたのは7月の中頃の朝練でした.ハードルを4つぐらい並べて,連続で両足ジャンプして飛び越えるというメニューを行なっていたところ,2つ目か3つ目のハードルを飛び越えて着地してから次のジャンプをする瞬間に腰に激痛が走りその場で立てなくなりました.ちなみに,南川さんは近くにいたのに,一切助けてくれませんでした😭


練習前ストレッチはしていたのですが、日常生活の中で腰の筋肉が固まっていたんだと思います.この時期は院試の勉強で椅子に座っている時間が長かったような気がするので,そういった時期こそストレッチを入念にやっておくべきだったなと思います.みなさんも期末試験期間とかは気をつけてください.あとは,急に高いハードルで飛ぶのも良くなかったですね.

 

その日,病院へ行って診察してもらいました.レントゲンをとってもらいましたが,骨に大きな異常は見られませんでした.よかったです.けれど,前屈や歩くことすら痛かったので,到底練習できる状態ではありませんでした.

 

全体練習中,けがしている選手はグラウンド横のトレーニングルームでできる練習をすることになっています.私がけがをしてそこで練習するようになった時には,僕を含めて4人くらいいました.

 

みんなそれぞれ,けがしていてもできる範囲のストレッチやウェイトメニューを地道に取り組んでいました.その姿に感化され,私も腰に負担がかからないメニューに必死に取り組むことができました.その結果,ベンチプレス80kgあげられるようになりました.みんなありがとう.

 

もちろん,みんな,野球できないのをもどかしく感じていました.なんのために練習に来ているのかわからなくなったこともあったかもしれません.そんな中でも,真摯に取り組んでいた彼らを尊敬しています.特に,けがが長かった選手にとってこの経験はきっと成長の糧になると思うので悔しさを忘れないようにしてください.

 

 

けがをしている間は,野球をできないこと以外にも精神的にしんどいことがありました.

 

1つ目は,オープン戦のボールボーイ,塁審などの試合補助をしなければならなかったことです.けがをしている人が試合補助をする.これは一見,普通のことに思えますよね.でも,実際にやったら分かります.今年からは「一体感」ということで,けがしていない人は全員ベンチに入ってるので,試合補助はけが人だけでなんとかしなくてはいけなかったんですよ.要するに,非常に少ない人数でやりくりしなければいけなかったということです.

 

夏休みは高頻度でオープン戦があり,その度にけが人(+その試合に出ないピッチャー数人)だけで,分担して試合補助をしました.さすがに毎試合少人数となると,しんどいですよね.毎試合フルでボールボーイをすることが確定します.七帝戦の裏のオープン戦期間は人数少な過ぎてイミワカランかったです.

 

ボールボーイをしながらSBO(カウント)をやったのもいい思い出です.#Staff近藤R助けてくれてありがとう.

 

とはいえ,#Staff大西や#Staff芳野は暑い中主審をやってくれています.彼らには頭が上がりません.真夏の主審と比べたらそんなたいしたことない仕事ですよね.試合中彼らの姿を見ていると,まあこういうのも含めて野球かなーといわざるをえないです.

 

2つ目は,掃除&ゴミ捨てです.まあ写真で見せた方が早いので写真を貼っときます.

 


写真は最近のものなので,僕だけですね.#29堀川は早く元気になれよ.

8月から掃除することになりました.掃除は身体的には全くつらくないのですが,精神的苦痛というか虚無感が強いです.僕は内心「こんなの掃除部だよね」と文句を言いたかったですが,他のメンバーは文句を言わずにやっていたのでえらいなと思いました.

 

けれど,掃除やゴミ捨ても誰かがやらないといけない仕事なので,仕方ないと割り切って掃除しました.まあこういうのも含めて野球です.

夏休みのことを思い出すとなんだか憂鬱な気持ちになってきました.このブログを書くのが一番の苦行かもしれません.でもこのブログを提出しないと引退できないみたいなので,書くしかありません.これも含めて野球です.

まあいつかいい思い出になるのでしょう.

 



最後の年は苦しいことが多かったですが,もちろんこの4年間悪いことばかりではありません.

楽しい同期たちと出会えたこと.野球にまっすぐに向き合う仲間たちと野球できたこと.野球を楽しめたこと.

 

また来年以降も仲良くしてくれると嬉しいです.

 

せっかくですので,後輩に向けて.

 

<スタッフ・マネージャーへ>

このキセキ読んでくれてるかわからないけれど,

いつもチームをサポートしてくれてありがとう.頑張りすぎないようにしてください.来年以降も楽しくやってくれていたら嬉しいです.

 

<動画班へ>
#5脇田,#66崔へ 率先してカメラ設置,動画アップロードしてくれてありがとう.

その他 もっと働け!!!

 

<キャッチャーへ>

この冬春はいっぱい球受けてくれてありがとう.いっぱいフォアボール出して申し訳ない.

 

<投手陣へ>

自分の良さ活かせよー.

 

考え出すと意外と疲れたので終わりです.まあ他は直接伝えることにします.バイバイ.

次は連盟委員の#Staff嘉田くんです.噂で,彼はこのリーグでは名の通った有能な連盟委員だとよく聞きます.同時に彼は実家が太いことでも有名です.車を持っているとか,いないとか.そんな彼の上質なキセキにご期待ください.

#Staff芳野から紹介を受けました、4回生投手の#16櫛田琢人です。彼はスタッフとして最もアツく仕事をしてくれていたと感じています。誰よりも勝利を渇望し、数々の新しい試みに挑戦して、手探りの中でも選手がより良いパフォーマンスを発揮できるように動いてくれたことは、京大野球部の財産になったと思います。ありがとう。1イニングしか投げていない日の試合後のアイスバスは凍えて死ぬかと思いました。僕たちが震えている中、タイマーを片手に微笑むドSっぷりもよかったですね。

 
さて、ついに僕にもキセキを書く番がやってきました。伝統あるこの「吉Gのキセキ」で、先輩方の数々の名作を読み「もっと頑張らないと」とモチベーションを高めていた側の自分が、今度は書く側になることに時の流れの速さを感じ深い感慨を抱きます。普段ふざけてばかりであまり本音を語らない性格ですが、最後くらい真面目に思いの丈を綴ります。長くなってしまいましたが最後までお付き合いいただけますと幸いです。
 
「なんのために野球してるの」
 
新チームはこの疑問への回答を探すところから始まりました。これは我々京大野球部に突きつけられる永遠の疑問だと思います。先輩方のキセキにもあり、また自分もふとした瞬間に考えるトピックです。
野球で大学に入学したわけでもない。必ずしもプロ・社会人を目指しているわけでもない。昼に起きて、冷房の効いた部屋でゲームをし、バイトをし、朝までお酒を飲んで寝る。そんな生活をしていても誰にも怒られない、むしろそれが普通とされる学生生活において、毎週朝5:00にグラウンドに集まり、極寒の暗闇の中永遠に感じられる体幹をし、大敗して気まずくなる週末を過ごす。どんなに試行錯誤を重ねて練習しても、リーグ戦で1勝もできずにシーズンが終わる。
客観的に見れば、なぜあえてこのような茨の道を選ぶのか、疑問を抱かれる方も多いかと思います。
 
「なぜ野球?」
「なぜ硬式?」
「なぜ体育会?」
「バイトは?」
「遊びたくないの?」
「勝てないのになんで続けてるの?」
「ドMだね」
 
しかし、事実私はなんの迷いもなく現在も体育会硬式野球部で活動を続けています。それは、私がこれらの疑問に対し明確な答えをもって回答することができるからです。
 
一つ
 
「究極の文武両道を体現し、世の中を動かす力になる」
 
これは監督の近田さんの言葉でもあり、部の行動指針でもあります。
我々がリーグ優勝を達成する。『文』を極め『武』をも極め、不可能を可能にすることができたとき、それは世の中への最強のメッセージになる。そして自らも世の中を動かす力となり得る。あの苦しい日々は自らを支える揺るぎない糧となり、あの喜びは新たな一歩を踏み出す情熱へと変わる。この経験は、この激動の時代を生き抜く力を与えてくれる。私はそう信じています。
 
一つ
 
「かけがえのない仲間がいる」
 
グラウンドに行けば必ず誰かがいる。オフの日も。雨の日も。日付が変わっていても。誰もいない深夜のグラウンドで一人走っている人がいる。降りしきる雨の中、目を真っ赤にしてバットを振っている人がいる。朝誰よりも早く来て、チームのために準備をしてくれている人がいる。リーグ戦、誰にも見られないようトイレで悔し涙を流す人がいる。何度怪我をしても、手術をしても、病気になっても、例え思うように動かない体に打ちひしがれていようとも、グラウンドで、ジムで、汗を流し続けている人がいる。現実から目を背けず、自らの弱さを受け入れ、どんな状況でも、人の何十倍何百倍もひたむきに努力し続けている人がすぐそこにいる。100人近くの関係者が、これだけの熱量で勝つために行動している。こんな環境、他にありません。
 
一つ
 
「たくさんの応援してくださる方々がいる」
 
応援団の方々、OB・OGの皆様、保護者の皆様、企業の皆様、そしてすべての京大野球部ファンの皆様。我々の活動の裏にはどれだけ多くの方々の支えがあるか。みなさんの支えがどれほど我々の力になっているか。日々痛感しています。不躾ですが、この場をお借りして感謝申し上げます。本当にありがとうございます。引き続き京大野球部への温かいご支援・ご声援のほど、よろしくお願いいたします。
途中入部をしてまで体育会硬式野球部を選んだ。その選択に間違いはなかった。私はそう断言できる。そしてそれは例外なく他の人にも当てはまる。私はそう確信しています。これを読んでいる一人でも多くの高校生が、京大の門を叩き、未来のDB戦士となってくれると嬉しいです。
 
この四年間を、挑戦で終わらせない。
夢で終わらせない。
リーグ優勝という結果に変えるまで、
私たちは走り続ける。
 
『京大で、野球を。』



「野球やりたい」
私が野球を始めたのは、小学二年生のとき。兄の背中を追いかけて地元の少年野球チームに入団しました。下級生の頃は上手かったが、徐々に試合に出られなくなり、気づけば野球を辞めたいと思っていました。正直今振り返ってもこの時期が一番辛かった。それでも辞めなかったのは、仲間の存在があったから。その一人が、立命館大学の徳岡君です。怪我で思うように投げられない中でもひたむきに努力する姿に、自分も負けてられないと思っていました。
 
よしきへ
地元の公立高校から一般で立命館に入り主戦級で活躍している姿は、ただただ尊敬するばかりです。先発で投げ合ったリーグ戦の景色は最高でした。またご飯行こう。



そんなこんなで少年野球を最後までやり、その流れで地元の中学軟式野球部に入りました。ここではのちの甲子園ボーイ二人と同じチームで野球をすることが出来ました。親元を離れ野球に打ち込み夢を叶えた本坊、中学から野球を始めたのに社の副将まで駆け上がった岡本、その他にも貴重な仲間に恵まれ、有意義な野球生活を送れました。
 
高校は学区の進学校を選びましたが、遠方からの通学、文武両道、コロナなど苦しいことが多く、野球をやるかとても迷いました。しかし、両親をはじめとして周りの多くの方々にサポートしていただき、高校野球をする決断をしました。
そしてここで僕の野球人生が大きく変わります。高2の夏に、顧問の先生の提案で投手に転向しました。それまでの野手としての中途半端な成績と、私の柔軟な肩関節を鑑みてご提案いただきました。そこからは面白いくらいに成長を実感でき、野球がどんどん楽しくなりました。最後は僅差で敗れ、とても悔しかったですが、やりきった実感はありました。
しかし、引退後に青木総監督が母校に来られたことをきっかけに、顧問の先生から京大野球部への入部を勧められました。木製バットになることと私の投球スタイルから、上でも通用すると背中を押していただき、躍進する京大野球部への気持ちが大きくなっていきました。
入学後、部活見学にも行きましたが、かねてから留学に行きたい思いが強く、両立を模索しましたが厳しいと言われてしまったため入部を断念しました。ただ、私は強欲な性格のため「両方やればええやん」と考え、留学後に入部するというハイパールートを思い付きました。一度軟式のサークルに入りましたが、完封してもそこまでの達成感もなく、打たれても特に悔しくない。やはりもう一度本気で野球をしたい。この思いは日に日に強くなっていきました。そして1ヶ月オーストラリアにホームステイをし、帰国後に入部しました。
入部直後の春リーグ開幕節で、いきなり金丸投手擁する関大から勝ち点を取り、「求めていたのはこれだ」と強く感じました。「あの舞台で投げたい。自分がチームを勝たせたい。」誰よりもワクワクしていたことを覚えています。
そしてすぐにチャンスは巡ってきました。入部後すぐの春のチャレンジリーグ開幕戦対関大で先発を任せていただきました。当初は近田さんから、ゴールデンウィークの高校生相手の試合で少し投げようかと言われていたのですが、急遽先発が決まり、まさか実戦初登板が公式戦になるとは思っていなかったのでかなり驚きました。しかしそれ以上に、自分がどこまで通用するのか試したい気持ちの方が大きかったと思います。そこで2イニングだけで降りましたが0に抑えることができ、その後すぐにリーグ戦に登板する機会をいただきました。
リーグ戦は対関学の8回、大差の負け場面でした。なんのプレッシャーもなく、また相手の情報も何もなかったので、伸び伸びと投げることができ、三人で抑えることができました。この時は正直、抑えて当然だとか、リーグ戦レベルも大したことないなとか思っていて、今思えば何の怖さもわかっていないただの井の中の蛙だったと感じています。
そして近大節の甲子園で、ベンチ入りはできませんでしたがボールボーイとしてグラウンドに立つことができ、憧れの甲子園に感動しました。その時同じくボールボーイだった#11谷村と、近田さんから「二年後はあそこで投げるんやぞ」と言っていただいたときは本当に高ぶりました。余談ですが二年後の春、ブルペンの椅子に座りながら「今日はないなぁ」と言いながら谷村が投げている姿を見ていました。甲子園のマウンドで投げられなかったのが、大学野球唯一の心残りです。



春リーグが終わり、京大は4勝を上げ過去最高タイの4位で着地しました。負けた試合も接戦が多く、「ほんまにリーグ優勝できるんちゃうか」とゾクゾクしました。秋は逆に自分が戦力として参入し、チームを勝たせられる側の人間になる。そう誓って夏のオープン戦期間へ突入しました。
夏は着実に成長を実感でき、色々あって七大戦は前日に#17永田にメンバー変更となりましたが、自信を持って秋のシーズンに臨むことができました。
迎えた秋のシーズン、開幕節はベンチに入れず、二節目に登板の機会をいただきました。結果は2回1失点と良くはなかったですが、この秋は稼働してやろうと闘志を燃やしていました。そんな最中、試合の翌朝ベッドから起き上がった際に腰の痛みを感じました。大した事ないだろうと思っていましたが、練習で痛くて走ることすらできず、これはまずいと病院を受診しました。MRIの結果、腰椎の疲労骨折と診断され、全治3ヶ月を言い渡されました。「終わった」自分の中で秋リーグを一つの目標としており、また先輩方と長く一緒に野球をしたいと思っていた中で、投球はおろか走ることさえできない自分に絶望しました。なにもできずチームが負けていく姿をただスタンドから眺めるだけ。そんな自分を見て、先輩方が声をかけてくださいました。「もう一回り大きくなって帰ってこい。」この言葉のおかげで我に返り、自分のすべきことを考え直しました。リハビリをして、より強くなって、自分がチームを勝たせる。冬に向かって奮起できました。
冬、初めての阿南キャンプから実戦復帰し、オープン戦で調子を上げて、春のリーグ戦に開幕節からベンチ入りすることができました。この3年春は自分の中でも大きくなれたシーズンだと感じています。2先発を含む7試合に登板でき、シーズンを通して稼働することができました。それと同時に自分の中での課題もたくさん見えたシーズンでした。特に、後半戦になるにつれて出力が下がりパフォーマンスが落ちることが顕著でした。そして忘れもしない最終節対関大。3-3の同点の場面での登板。チームは春ここまで勝ち星がなく、なんとしても勝たなければいけない試合。登板前近田さんからも「お前しかいない」と檄をいただき、絶対に自分が抑えると意気込んでマウンドに向かいました。結果、1回10失点。そして21-4の惨状。自分の中でなにかが音が鳴って折れた気がしました。自分のせいだ。自分のせいでこのチームは負けた。それは誇張でも何でもなく、紛れもない事実として私に襲いかかってきました。自分がチームを勝たせる。自分ならこのチームを勝たせられる。そう思い描いていたのはただの夢物語で、現実の自分には何の力もない。お前には無理だ、そう言われている気がしてなりませんでした。
それからは、野球における自らの弱さを真正面から受け止めきることができず、劣等感を野球以外の面で埋めようとしてしまいました。これが良くなかった。野球での弱さは野球に向き合うことでしか克服し得ないと言うのに。練習にも大して身が入らない。またリーグ戦後半から肘に強い痛みを感じ、前腕から指先の感覚が無くなりボールに指がかからず思うように投げられない。余計に練習に身が入らない。悪循環が重なり、「肘が痛くなければ抑えられた」と最悪の考えまでするようになる。挙げ句の果てには先輩方から厳しいご指摘をいただくまで落ちぶれてしまいました。
そして最悪の状態で3年秋のリーグ戦を迎えます。開幕節は登板がなく、二節目前の朝練で背中に痛みが走り、広背筋の肉離れで離脱。ここから先は正直記憶がほとんどありません。思考が停止した状態で球場に行き、長すぎる学歌を聞きながら負けていくチームを何もできず眺めスタンドで立ち尽くす。またこの景色か。そして1勝もできずシーズンが終わる。ただ、1つ覚えていることがあります。最終戦が終わり記念撮影をしているとき、中野さんから言われた言葉です。
 
「やっぱお前おらなきついわ。」
 
これを聞いたとき、自分がどれほどチームに迷惑をかけていたかを実感すると同時に、こんな自分でもチームに必要とされていることには喜びを感じ、いろんな感情がぐちゃぐちゃになって涙が溢れました。大事な時期になにもできず、先輩方には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 
新チームになり、それまでとは180度方針が変わりました。個の力での打開よりも、組織として一体感を持って私学に挑んでいく。細部まで徹底し、チーム全体に浸透させる。自分も最上級生としてチーム作りに携わらないといけないな。リーグ戦でもある程度投げていたし、自分が投手主任になって強い投手陣を作り上げていくのかな。そう思っていました。しかし自分の役職はありませんでした。投手主任が#14菅野に決まったことに疑念を抱いていたわけではありません。ただ、野球の面ではある程度活躍していた中で、自分を押す声が全くなかった。ここに大きな危機感を抱きました。自分には人望がないんだ。誰も自分についていきたいと思っていない。自分の取り組みを見直す大きなきっかけとなりました。
冬の練習が進んでいく中で、自分の行動を客観的に見ればその原因はすぐにわかりました。厳しい練習で弱音を吐いてしまう、大勢の前での発言を躊躇ってしまう、本音を上手く伝えられない、批判を恐れて言いにくくても言うべきことを言えない。最上級生になって初めて組織を率いる難しさを感じました。それと同時に、歴代主将や主任達の偉大さを身に染みて感じ、批判は簡単でも実際に組織を動かすことがどれだけ大変かを思い知らされました。そして、自分ならどんな人についてきたいか、これまでのリーダー達に共通しているものはなにかを考え、それを少しずつ実践していきました。例え役職がなくとも、自分の発言や行動で組織を統率することはできる。背中で示すことだってできる。そこからは常にそう考えて行動してきたつもりです。落ちているゴミを拾う。使った場所は綺麗に整備する。目を見て挨拶をする。整理整頓を心がけ、汚いところは掃除をする。すべて当たり前のことかも知れませんが、信頼される人間になるにはとても重要なことであると、この1年で学びました。
野手から信頼される投手になる。「櫛田で打たれたら仕方ない」と言ってもらえるような投手になる。Aのオープン戦やリーグ戦で投手をまとめる役割が比較的多かった中でも、同様に意識して行動していく中で、自分の中で徐々に形になってきたかなと感じています。

4年春のリーグ戦では、3試合のみの登板に終わりました。近田さんからチームのキーマンに自分を選んでいただき、私の活躍がチームの勝敗に直結すると言われた中で1勝もできませんでした。責任の重さを自覚した中でなお結果を残すことができず、力不足を痛感しました。昨年まで何気なく見ていた僅差の試合でも、その場面で登板することがどれほど重圧のかかることであるかを体感し、同じ役割を担っていた先輩方の偉大さを再確認しました。一方で自分は、リーグ戦後半に打球を受けた左足が筋挫傷になり、無理がたたってリーグ戦後の離脱が長引く始末。焦る気持ちも正直ありました。ただ何度も怪我を経験している甲斐もあって、さらなる成長への助走にすることができました。復帰後は、自分の成長のみならず、日々の練習やオープン戦を経て、より一層投手陣として試合を作る・チームを勝たせるという意識を浸透させることができたと感じています。あとは結果としてリーグ戦で表現するのみです。リーグ戦直前に食中毒になって体重が激減したり、背中の肉離れが再発したりと決して万全の状態とは言えないかもしれませんが、そんなのすべて言い訳なので最後まで食らいつきます。



ここからは、お世話になった方々へ感謝を綴りたいと思います。
まず首脳陣の皆さんへ
近田さん
途中から入部した私にすぐにチャンスを与えてくださったり、何度怪我をしてもめげずに使ってくださったりして、本当に感謝しています。目が合うたびに「油断するなよ」と言い続けていただいたおかげで、より一層気を引き締めることができました。このチームのキーマンに選んでいただけたことが大変嬉しく、近田さんのご期待に応えたいという思いが私の原動力になりました。近田さんの元で野球できたことは僕の財産です。本当にありがとうございました。
 
臼井さん
近田さんとは違った目線から様々なことを教えてくださり、野球への理解が一段と深まりました。配球やマウンドでの心持ち、試合の流れの読みを意識して野球をするようになってから、より一層野球が楽しくなりました。臼井さんの求めるレベルに到達できた自信はないですが、臼井さんに認められたいという思いは僕だけでなく他の選手の力にもなっていると思います。お忙しい中これまでご指導いただきありがとうございました。
 
#52平山さん
野球部に残っていただいてありがとうございました。朝練のランがきつくて吐いたのは良い思い出です。キセキで「リーグを代表する投手に」と書いていただいたことは僕の中で大きな原動力になっていました。平山さんのご期待には添えなかったですが、朝早くから練習を見ていただいてありがとうございました。来年からの新天地でのご活躍を応援しております!
 
#53赤尾さん
赤尾さんの「いや俺より遅いやん」のおかげで僕の入部が1年早まりました。本当にありがとうございました。野球にかける思いが人一倍強く、自分が他大学のデータをお願いしたときもすぐに出してくださってとても助かりました。赤尾さんのデータで勝ったともう一度言えるように腕振ります。
 
南川さん
入部当時、赤ちゃん並みのウエイトで貧弱だった体も、紆余曲折はあれど微弱くらいまでには成長できたかなと思いますし、ここまで来られたのも南川さんのおかげです。ありがとうございました。
 
両親へ
小学校から始めた野球を、大学まで続けさせてくれて本当にありがとう。オープン戦やリーグ戦だけでなく、九州遠征や僕のいない北海道遠征、僕のいない岐阜遠征、僕のいない東京遠征まで見に来て(行って?)くれてありがとう。差し入れも頻繁にしてくれて本当に助かっています。お父さんが、僕が絶対にでない下級生のチャレンジリーグまで見に行っていたと聞いたときはさすがにびっくりしました。小学生のとき、お母さんが「どうせ見に行くなら試合出てるとこみたいなぁ、」とつぶやいていたこと、今でも覚えています。少しは良い姿を見せられたんじゃないかな。最後まで応援お願いします。普段は照れくさくて言えないけど、本当に感謝しています。ありがとう!自慢の息子になれたかな。
 
同期へ
みんなと同期で本当に良かった。1年遅くから来た自分を温かく受け入れてくれて本当に嬉しかった。みんなと過ごした日々は宝物です。僕に居場所を作ってくれてありがとう。愛してるぜ。死ぬまで一緒にいよう。個別のメッセージは寄せ書きに書きます。
 
後輩たちへ
本当は全員書けたらよかったけど投手陣だけにさせてもらいます。
 
#21渚
誰が見ても京大のエース。僕が先発で回れていたらもっと負担は少なかったと思うけど、下級生の頃から背負わせてしまって申し訳ない。誰よりも野球に向き合っている渚が打たれたら仕方ないし誰も文句は言わないから、うまく行かなくても考えすぎずにやってほしい。来年からはより投手陣を先導する立場になるやろうけど、野球を好きな気持ちを忘れず強打者たちとの真剣勝負を楽しんで!怪我はあかんよ。階段気ぃつけて。
 
谷村
いつもCBしてくれてありがとう。僕の巻き込み力で同じように注意されたりしてもうてすまん。怪我が多く良き理解者としていてくれてとても心強かった。来年からはロッカーで慰め合いはできないけど、スペ班の未来は託した。色々言われたりもあるかもやけど、結果で黙らせればいいから自分に必要なことを貫いて、肘に注射打ってこれからも活躍してほしい!
 
#20武村
門下生たけむら。僕が言ったことをすぐ忘れるからあかん笑。色々試行錯誤してるのは全員知ってるし、間違いなく必要な戦力やから自信持って。ちゃんとリーグ戦に合わせて調子上げるんよ。パチキャラ脱却して結果出してくれ。これまでの苦しみは全て肥沃な土壌であり、いつか必ず揺るぎない大輪を咲かせると信じています。また呼んでくれたらいつでもグラウンドいくよ。武村、いままでありがとう。
 
#31朽網
経済派閥。履修登録ちゃんと確定ボタン押すんやぞ。来年も経済会やってあげてね。下級生の頃から組織作りに積極的で感心してた。色んな声がある中でも僕は結構評価してたよ。よりチームの戦力として回りだしてからは意識が変わったのを感じたし、責任を自覚し始めたのが伝わってきた。体裁は正直あんま良くないけど、ちゃんと結果で示せばいいと思う。それに加えて、今度は最上級生として後輩から見られていることを意識できるともっといいかな。来年も頼むよ。
 
#69南光
経済派閥。まずは入部してくれてありがとう。僕と同じルートで来てくれたこと、なんだか僕が歩いた場所が道になった気がして感慨深かった。すぐに主力として活躍してる姿は見てて感心します。こっからはより高みを目指して、リーグを代表する投手に。上手く行かんかったら、全部#1けいいちろうのせいにしとけ。
 
#13窪
経済派閥。一番ダル絡みした自信ある。僕の失言は窪が関与してるのが多い気がするから、たぶん窪のせい。怪我を乗り越えて急激に成長してる感覚があるし、もっと大きくなれると思う。渚・南光に割って入れる。まだ2回生なのが驚き。老けてるとは言ってないよ。
 
#38蓮香
よく入部してくれた。投げ方意味わからんすぎる。???「競技ちゃうでしょこれ」。京大に欠かせないピースに違いはないから、自分が勝敗を握ってるという自覚を持って、チームメイトの負託に応えて欲しい。がんばれ!
 
#35木村
めんどくさい先輩やったと思う。すまん。怪我が多く、班長としては班員が増えて悪い気はしなかったけど、一選手としては残念な気持ちやった。いいもん持ってるしもっと活躍してる姿を見たい。言い訳せずに怪我と向き合って、リーグ戦で登板できるようにがんばれ!
 
#29堀川
春はずっとAに帯同してたけど、結局リーグ戦では投げられずに悔しい思いをしてると思う。さらに病気になってしまって思うように運動できない日が続き、気持ちが切れかかっているかもしれない。でもやっぱり堀川の活躍が必要やし、練習補助とか少しづつでいいから戻って来い!そして今度はリーグ戦のマウンドで投げてる姿を、応援してくれてる人たちに見せられるように。がんばれ!
 
#30高山
怪我も多くてなかなかうまく行かないことが多いと思うけど、めげずにコツコツ頑張れ。選手として戦うと決めたのなら、もっと基準を上げて。人の何倍もやらないと追いつけないよ。がんばれ!
 
#49吉満
経済派閥。体でかい、球速い、ジャンプ力ない、舐めるの早い。将来の京大を背負う人間だと自覚して、これからも自分に厳しく頑張れ!
 
#61高橋
お前が一番舐めとる。外面だけまじでいい。1年からAに帯同して活躍してるのは純粋にすごいから、怪我に気をつけて頑張れ!あの家の未来は任せた。
 
#43益田
来年からDBのイケメン担当を継承してくれることを嬉しく思う。センスいいから怪我しない体作りと技術練習に向き合って、来年は大きく飛躍しよう。頑張れ!
 
#70高田
ポテンシャルは一番やと思う。吉満に負けてないと思うから、2人で刺激し合って、投手陣を支えていって欲しい。頑張れ!
 



追伸:こう見ると経済学部自己中すぎてピッチャーしかいないですね。
#Staff近藤も#Mgrゆめりちゃんも単位取得がんばって!#Staff服部資格勉強がんばれ!
メッセージを少し
Aにいる選手達へ
リーグ優勝を体現できるのは試合でプレーするメンバーだけです。ベンチに入れず悔しい思いをしているスタンドのメンバー、いつも支えてくれているスタッフ陣、京大のリーグ優勝を願っているOB・OGの皆さん、応援団やファンの皆さんの思いをすべて背負っているということを一瞬たりとも忘れないようにしよう。最後まで全力プレーで戦い抜く、京大の誇りをグラウンドで表現しよう。
 
Bでもがいている選手へ
京大がリーグ優勝するにはBの選手の台頭が不可欠です。ただ、Aにあがることが目標ではいつまで経ってもリーグ戦では活躍できません。もう一段基準を上げて、リーグ戦で圧倒できる実力をつけられるように日々の練習に取り組もう。加えて、Aの選手は計り知れない重圧の中で戦っています。スタンドからの景色とグラウンドレベルの景色では見えるものがぜんぜん違う。どれだけ悔しくても、仲間の背中を押す声かけができる、そんな選手になって欲しいです。そうすれば、次自分がプレーするときに今度は背中を押してもらえると思います。
 
怪我で苦しんでいる選手へ
僕が近田さんと萩原さんからいただいた言葉で印象に残っているものがあります。それは、「怪我をするやつが悪い。」僕はこの言葉にはっとさせられ、以来この言葉を自分の中で反芻しています。あえて誤解を恐れずに言うと、本当にその通りだと思っています。怪我をしたとき、心のどこかで「怪我がなかったらもっと活躍できた」と思ってしまうことはよくあることかも知れません。事実、腰を怪我したときの自分がそうだったから。ただ、その考えは本当に格好悪く、他責思考以外のなにものでもありません。怪我をしたとき、ではそれまでのケアは本当に十分だったか。睡眠は、食事は、体の使い方は本当に適切であったか。もうそれ以上できることはなかったのか。考え出せばキリがありません。大事なのは怪我を仕方ないと受け入れて自尊心を保つことではなく、どうすれば怪我をしないか、怪我を負いながらでもパフォーマンスを上げるためには何をすべきかを考え続けることだと思います。最悪、痛くても痛み止めを飲んで注射を打ってやれば良い。怪我は自分を見つめ直しより強くなれる大きなチャンスです。1日1日を無駄にしないように過ごして欲しいと思います。
 
最後に、僕が大切にしている言葉をいくつか紹介して終わりたいと思います。
 
『寧静到遠』
これは三国時代の名将、諸葛亮孔明の言葉です。意味は、心を落ち着け焦らずに誠実かつ着実に努力続けることで、遠くの目的や大きな目標に到達できるということ。怪我をしても、どれだけ周りがすごくても、焦らず着実に努力すれば目標を達成できると教えてくれました。
 
『恩は結果で返す』
これは兄からもらった言葉です。今の自分は自分一人で存在している訳じゃない。数々の支えがあって今生きている。その恩を、結果として、目に見える形で届ける。僕の行動指針です。



『夢見てた未来は それほど離れちゃいない また一歩 次の一歩 足音を踏みならせ 時には灯りのない 寂しい夜が来たって この足音を聞いてる 誰かがきっといる』
 
「足音~Be Strong」夢はすぐそこまで来ている。我々の足音は、必ず誰かの耳に届いている。夢を実現するまで歩みを止めないでいよう。
 
15年ほど続けてきた野球ももう最後です。野球というスポーツに出会えて良かった。心からそう思います。まだまだリーグ戦は続きますので、僕の野球史に最後の1ページを刻むまで走り続けます。そして、僕も来年からはひとりの社会人として、「無数の使命」を背負い、大学野球で培ったことを糧に世界に羽ばたいていきたいと思います。ここまで長々と読んでいただき、ありがとうございました。引き続き、京大野球部への温かいご声援のほどよろしくお願いいたします。
 
次は#15北山です。JPは軟式出身ながら硬式野球部を選択し、4年間やり抜きました。僕にはわからないたくさんの苦しみがあったと思いますが、それを乗り越えてきた彼を心から尊敬しています。彼の熱いキセキにご注目ください。



やりきった!