青松寺参拝 | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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港区の愛宕にある青松寺に散歩がてら行ってきました。

青松寺は「せいしょうじ」と読みます。

祝田通りにある名刹です。

扁額には青松禅寺とあります

曹洞宗なので禅寺なのですね。

本山は福井県の永平寺と横浜鶴見の総持寺となっていました。

萬年山(ばんねんざん)というのが号です

江戸を開拓したと言われている太田道灌が作ったそうです。

1476年(文明8年)、時代は室町幕府8代将軍足利義政の頃です。

最初は現在の千代田区麹町辺りにあったそうですが、徳川家康の江戸開府に先立つ1600年(慶長5年)に江戸城の外堀を作るので、現在の愛宕の地に移設されたそうです。

 

訪れた目的は「明石元二郎氏のお墓」詣りです。

僕のブログでも度々登場していると思いますが、日露戦争の際に欧州で諜報活動で大活躍した陸軍将校です。

台湾に渡って第7代台湾総督を務めています。(当時は台湾総督は陸軍軍人の指定席だったようです)

最終的には陸軍大将にまで昇格している人物のお墓がここ青松寺にあると知って、一度行ってみたいと思っていました。

山門をくぐると両脇には四天王像が2体ずつありました。

向かって左が「多聞天」、右が「持国天」です

多聞天は別名「毘沙門天」(こちらの方が聞き覚えありますね)、世界の北方を守っているそうです。

持国天は世界の東方を守護しています。

どちらも足元の邪鬼を踏み付けています(写真には映っていませんが)

もう一方の山門には向かって左に「増長天」、右には「広目天」です

増長天は世界の南方を守り、広目天は世界の西方を守護しています。

こちらも邪鬼を踏み付けています。

見ることは出来ませんでしたが、四天王像の上の階には十六羅漢像があるそうです。

十六羅漢は仏のみ教えを護り、広く世に伝えることを誓う仏様とのことです。

本堂に入ることが出来ます

中にはお坊さんはいませんでした。

大正12年(1923年)の関東大震災で消失してしまいましたが、その後昭和4年(1929年)に当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで再建されています。(完成は昭和5年?)

この本堂の中の灰色の柱や梁がそれだと思います。

それにしても、この縦横の構造物は耐震性のためとは言っても寺院には不似合いですね。

 

墓地はお寺の裏手にあるようです。

そちらの方向に行くと立派な庭園が現れました。

山水画を思わせるような雰囲気がありました

ビルに囲まれてはいますが、なかなか風情があります。

ベンチも設置されていてしばらく眺める事も出来るようになっていました。

 

庭園を過ぎると何と!トンネルがあります。

トンネルの突き当たりにエレベーターがありました。

エレベーターで上に行くと墓地でした。

都心ならでは、ですね。

明石元二郎氏のお墓は特に目印はなかったので、それらしい墓石を目指しました。

何となく普通の墓石よりは大きいのでは?と思って探していると直ぐに見つかりました。

「臺灣總督陸軍大将男爵明石元二郎墓」と読めます

周囲でも一際大きな墓石でした。

墓地の敷地も広かったです。

 

墓石には漢字だけで碑が刻まれていましたが、難しすぎます

すらすらと判読出来たらさぞ楽しいと思います。

「ああ、教養があったならば」と思う瞬間でした。

「露國」という文字が見えました

おそらく明石元二郎大将の業績が記されているのだと思います

11月3日(明治節です)に臺北に埋葬した後に遺髪を芝青松寺に埋葬、と判読できました

明石元二郎氏は日露戦争の後に台湾に渡って第7代台湾総督を務めています。(当時は台湾総督は陸軍軍人の指定席だったようです)

大正7年(1918年)7月のことです。

この際に陸軍大将に昇格しています。

明石元二郎大将(Wikipediaから拝借)

台湾では軍人ながら民政に邁進して「台湾人の日本本土での帝国大学への入学許可」「台湾電力株式会社を設立して水力発電を推進」「華南銀行の設立」「東京帝大工学部出身の八田與一氏の提言を受け入れて嘉南大圳という農水灌漑施設の建設を許可」「鉄道貨物輸送力を増大させるために海岸線(竹南駅と彰化駅を結ぶ路線)を建設」などの大きな功績をあげています。

特に嘉南大圳の建設では当時東南アジア最大の烏山頭ダムを最初に建設して、このダムから水系を引いて耕地面積を劇的に増やしました。当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上を費やしたと言われています。

この灌漑施設によって嘉南平野を中心とした地域は非常に豊かな穀倉地帯となり、現在も台湾国民から感謝されています。

烏山頭ダムによるダム湖

とても綺麗で珊瑚湖と呼ばれています。

ダム湖からの水路

現在も現役で使われています。

この工事の責任者であった八田與一夫妻のお墓も烏山頭ダムにあります。

日本の帝国大学への台湾人の入学を許可したお陰で李登輝氏(台湾で初めての民主的選挙で選ばれた総統です)が京都帝国大学出身(戦時中で諸事あって卒業はしていません)なのですね。

李登輝氏(Wikipediaから拝借)

このようなインフラ建設を植民地時代に日本が積極的に行った事が台湾が非常に親日的な理由の1つだと思われます。

明石元二郎大将の決断、政策は今日までの日台関係に繋がっていました。(泣ける〜)

 

しかし、大正8年(1919年)10月に本土へ向かう船上で病に倒れてしまい、生まれ故郷の福岡で亡くなってしまいました。

死因はスペイン風邪だったとも言われています。

嘉南大圳の完成は昭和5年(1930年)でしたので、明石元二郎大将は完成を目にしないまま亡くなっています。

「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言だったそうです。(Wikipediaより引用)

この遺言によって、遺骨は福岡から台湾にわざわざ移され、現在は台北市に隣接する新北市の福音山基督教墓地に埋葬されています。

 

このストーリーを知ったのがきっかけでこの後、僕は台湾に行くことになります。

それはまた後でご報告します。

境内には鮮やかな金木犀の花が咲いていました

鐘楼がありました

鐘撞きは不可でした。

 

山門を出ると祝田通りの喧騒に逆戻りです。

青松寺は慈恵大学病院と愛宕フォレストタワーに囲まれた立地でした

ここから歩いて自宅へ帰ります。

今日もいい散歩になりました。