兵馬俑と古代中国展&旧岩崎庭園散策 | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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数年前にも開催された兵馬俑展ですが、今回は趣がガラッと違っているようなので楽しみです。

上野の森美術館です

正式名称は「兵馬俑と古代中国」です。

今回は兵馬俑そのものの展示は比較的少なくて、春秋戦国時代を経て秦の始皇帝が中国を統一するまでと、秦による統一時代、そして秦が滅亡して漢(前漢)が覇権を握った時代、の俑や各種出土品を年代を追って展示解説しているのが見どころです。

秦が統一した中国の版図

思ったよりも狭い範囲でした。

現在の中華人民共和国の方が広大な版図です。

中国の西安にある兵馬俑の内観、約8000体の人物や馬などの俑が埋められています

一度行ってみたいと思っていますが、中国本土に足を踏み入れる勇気はしばらくはありません。

前回の兵馬俑展は兵馬俑がレプリカも含めて所狭しと展示されていたのですが、今回は始皇帝によって統一される前後の秦やその後の漢王朝との比較や兵馬俑以外の発掘品の展示が見ものです。

 

ここからしばらくは「戦国秦」、統一される前に7カ国が凌ぎを削っていた春秋戦国時代の秦の出土品です。

ベルトのバックルだと思います

金メッキが剥げていなければ、さぞかし美しいものだったのでしょう。

その頃からメッキ技術があった事に驚きです。

日本の武士の鎧兜、刀剣の鍔などに通じる美を感じます。

牛と虎がアレンジされているそうです

牛は判別できますが、虎はよく分からないですよね。

騎馬俑です

これは秦が中華統一する前の「秦」だけの国家の時代のものです。

表現も稚拙で大きさも小さいです。

この程度のサイズが標準だったようです。

全中華的にはこれが標準サイズだったのが、なぜ統一秦になってから急に等身大の俑が作成されたのか?

興味深いです。

玉人、という人を象った玉器だそうです

向かって左が男、右が女だそうです。

これも現代的な感覚からすると稚拙と言えると思います。

でも玉器とは何?

天を祭祀する場所に埋められていたそうです。

美的にデフォルメされているというよりは「稚拙」という表現の方があっているのではないでしょうか?

この青銅製の壺も底面が傾いていたり、取っ手が左右非対称だったりして稚拙な印象を拭えません

蟠螭紋とは「龍が絡み合う紋様」のことだそうです

ラーメンの器の模様の原型?

春秋戦国時代は戦闘中なので、文化的な発展はあまり無かったと考えると納得がいきます。(あくまでも私見です)

話は変わりますが蟠螭紋の「龍」は数千年前から中国ではポピュラーな生き物で色々な場面に出てきますよね。

日本でも文明歴史が始まってから「竜」があちらこちらで描かれたり、物語りに出てきます。

竜は神話や昔話の定番ですよね。

ヨーロッパでも数千年前から「ドラゴン」が描かれていたり、話に出てきますよね。

何故、架空の生き物である龍、竜、ドラゴンが世界共通なのでしょうか?

その答えはおそらく「架空の生き物ではなく実際に生存していた」です。

それほど遠くない数千年前、人類と共存していた時代があったと考える方が自然ですよね。

この話はまた機会があればしたいと思います。

 

ここから先は秦が中国を統一してからの「統一秦」の時代の出土品となります。

何と「呂不韋」という名が刻まれている戟が展示されています

今回の展覧会に来た一番の目的はこれでした。

呂不韋(りょふい)とは始皇帝の父親である秦の子楚(荘襄王)の時代からの政治家です。

子楚と始皇帝の2代に渡って重要な役職を務めています。

元々はシルクロードを渡ってきた西方からの商人とされています。

実はこの呂不韋こそが始皇帝の父親、という説があります。

これについては後で詳述します。

この戟の製造責任者が呂不韋という事のようです

呂不韋が製作者ではありません。

弩級の構造図

江戸時代でもこのような機構の弓矢は日本では発明されていません。

日本の弓矢と比べて殺傷能力が格段に高そうですね。

いわゆるクロスボーです。

弩級の要の部分となる弩機です

2千年以上前にこのように金属でロックがかかる道具を発明していたのですね。

これぞ文明、という感じです。

「ロックしてからリリース」というのがポイントですね

軍隊を後退させる際に使用した鐘です

ちなみに軍を前進させる際には太鼓を鳴らしたようです。

穴の開いた吊り輪に紐を通してぶら下げて使用していたようです

こちらは軍隊を前進させる際に用いられた鐘です

これも紐にぶら下げて側面を叩いて音を共鳴させていたようです

このような展示品を見ていると春秋戦国時代の秦よりも統一秦の出土品の方が進歩して芸術性が高まっていると感じます。

ここから先は漫画「キングダム」とのコラボレーションの話になります。

この企画のお陰で集客がアップしている印象があります。

平日午前中にもかかわらず、すごい入場者数でした。

ご存じの方も多いと思いますが、キングダムとは秦が中華を統一するまでの物語です(漫画を読んだ訳では無いので表面的な知識しかありませんが)

いわゆる春秋戦国時代が背景となります。

もちろん主人公は統一秦の始皇帝となる「嬴政(えいせい)」です。

テレビ漫画の中では単に「政」と呼ばれることが多かったと記憶しています。

「嬴政」は父親である秦の子楚(荘襄王)の息子という設定ですが、これが怪しいのです

嬴政が31代目の秦王なので、秦の歴史の古さが窺えます。

逆に言えば、秦30代もの期間、中華は統一されずに群雄割拠していた事になりますね。

秦に仕える将軍達もキングダムの主人公の一人です

その中でも劇中で「信」と呼ばれている若者が将来の「将軍李信」です。

李信と嬴政との交流も漫画の中での見どころです。

この将軍家は秦の滅亡後の漢の時代になっても「李広」という人物を輩出しています。

加賀前田家が豊臣政権下でも徳川幕府下でも存在感があるような感じでしょうか?

「呂不韋の子供が嬴政」だとするとワクワクしますね!

呂不韋が仕えていた子楚(荘襄王)は呂不韋の愛人が大変な美人だと聞き、「俺によこせ」と言ったようです。

そこで呂不韋は愛人の女性を子楚に差し出したのですが、既にこの時には呂不韋の子供を身籠もっていた、という説があるのです。

司馬遷が著した中国の歴史書である「史記」に記されているそうです。

しかも呂不韋は西方からきた商人でユダヤ人だった、という説もあります。

墳墓に収められていた始皇帝の俑の顔立ちは漢民族らしくない、という情報もあるようです。

高校の日本史の教科書にも出てくる飛鳥時代の人物で「秦河勝(はたのかわかつ)」という朝廷の役人がいます。

秦氏は平安時代に書かれた「新撰姓氏録」という氏族の由来を記した本にも「古墳時代から飛鳥時代にかけて活動していた氏族」と記載されています。

この秦氏は「秦の始皇帝の末裔である」と記載されている書物があるそうです。

「秦(しん)」ですが訓読みすると「秦(はた)」となります。

秦氏は元々は渡来人で日本にやってきて、その土木技術や養蚕機織り技能のために各地で重用された氏族のようです。

飛鳥時代に活躍した秦河勝はその秦氏の頭領的な存在だったようです。

秦氏一族が住んでいた場所が太秦(うずまさ)です。

映画村で有名な京都郊外の地域です。

伏見稲荷神社のある辺りも秦氏の住居地だったと言われています。

秦の始皇帝はユダヤ人と中国人のハーフ、そしてその子孫が日本にもやってきて飛鳥時代以降に活躍していた、ワクワクする話です。

また、イスラエルのユダヤ人は西暦70年にローマ帝国から追放されて祖国を失い、流浪の民となりました。

その追放されたユダヤ人がシルクロードを通って数百年かけて日本に辿り着いた、という説もあります。

日本列島に辿り着いたのが5、6世紀頃の事と推測されています。

古墳時代です。

日ユ同祖論にも繋がる話です。

かなり脱線してしまいました。

一度、キングダムを通読してみたくなりました。

 

また統一秦の出土品に戻ります。

戦服将軍俑という貴重な一体です

約8000体が出土している兵馬俑ですが、その内の11体しか確認されていません。

日本初公開だそうです。

戦車に乗って歩兵や騎兵の小部隊を統率した高位の武官である「将軍」の俑です。

ひょっとしたら「李信」かも?

これは甲冑を着ている一般的な兵士俑です

紀元前3世紀にはこのような戦闘服があったのですね

この戦闘服は「胡服」と呼ばれており、北方遊牧民の特徴だそうです。

日本は弥生時代だった頃です。

文明的には日本よりも中華が進んでいたと言わざるを得ません。

実物大の戦車馬俑

蔵、鎧、手綱の3つがありません。

あくまでも戦車を曳く目的だったからでしょうか?

一体形成ではなく、頭部、首、腹部、臀部を接合して作っているそうです

4頭立ての戦車で戦っていたのですね。

源平合戦などで日本の武士が馬に騎乗して一騎討ちしている光景は牧歌的に感じてしまいます。

 

これらのように統一秦の時代になると各種俑は「等身大」となっています。

春秋戦国時代の秦の俑とは別物の感じがします。

何故なのでしょうか?

これには諸説あるのですが、等身大の兵馬俑を見て思い起こされるのはギリシャ彫刻ではないでしょうか?

有名なダビデ像にそっくりだとおもいませんか?

ギリシャといえばアレクサンダー大王ですね。

征服王で中華の隣のインドまでを征服した人物です。

その影響が中華、秦にまで及んでいて秦が中華を統一した時代に文化的にギリシャ的な俑となって開花した、という説があります。

 

ここから先は統一秦が滅びて漢となってからの発掘品となります。

劉邦が項羽を破って打ち立てた前漢です。

急に小さい俑に戻ってしまいました

兵馬俑の等身大と比べると全く別物です。

表情も心なしか稚拙なものに戻っている印象を持ちます。

秦が滅亡して漢が中華を統一しますが、漢にはギリシャ彫刻の文化は伝わっていなかったので、等身大の俑が継続して制作されることは無かったのだと思われます。

大きさも造形も秦時代と比べて稚拙なものになっています

元々は彩色されていた俑との事ですが、色は殆ど剥げ落ちているようです

歩兵は盾を持っていますし、右手には槍でも持っていた雰囲気ですね

この盾には色がしっかり残っているし、頭部や胴部には赤い彩色がまだ見られますね。

歩兵は盾を持っていますし、右手には槍でも持っていた雰囲気ですね

この盾には色がしっかり残っているし、頭部や胴部には赤い彩色がまだ見られますね。

一角双耳獣、元々は彩色されていたようですが、角に色がついているのが分かります

角の彩色は縞模様だったようです。

全体的な色合いだったのか見てみたかったですね。

それにしてもトリケラトプスの角1本バージョンに見えて仕方ないのは僕だけですか?

この動物、本当に居たのだと思います。(おそらく恐竜の生き残りだったと思うのは僕だけでは無いはず)

一角双耳獣、なんかしっくりこない名称ですね。

耳が二つあるのは当然と思われるのに、わざわざ「双耳」と名前を付けて入るのには理由があるのでしょうか?

耳が際立って目立っていたからでしょうか?

金印、福岡の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印が思い起こされますね

「王精」と彫られています。

文字の部分が赤くなっているので、朱肉が残っているのでしょうか?

金印の持ち手が亀になっています

秦の時代のものではなく、漢の時代のものです。

一見して「これは素晴らしい」と感じます

しかし、よく観察すると「耳の間に短い角がある」「尻尾の位置が普通の馬とは異なる」などの相違点があります。

これは西域(中央アジア)にいると信じられていた「汗血馬」を想像して漢の武帝が作らせたものとされています。

汗血馬は1日に千里を走ると言われていました。

青銅に金メッキして製作されたものです

この時代にすでにメッキ技術が確立されていた証左ですね。

約2200年前の木簡が井戸の中から発見された、奇跡ですね

水に浸っていたので保存状態が良かった?

この時代にはすでに漢字が統一されていて、行政文書として使われていたのですね

この時代でもまだ紙は使われていなかったの事を思うとエジプトのパピルスは先端的でした。

さすがエジプト文明ですね。

文明といえば「日本文明」、これ世界の常識です。

世界4大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河)と学校で教えているのは日本だけです。

世界的には「世界8大文明」「世界7大文明」と記載している書物が一般的です。

左翼の日教組や文科省の官僚のやりそうな事です。

日本は日本国であると同時に日本文明、なのです。

文明の定義は固有の「人種、宗教、言語、文化生活様式」です。

日本は全てに当てはまります。

また脱線です。

確かに青銅器に彫られた文字のものは数多く残っていますね

木簡に書かれている内容の説明文

記録を残すのはとても大事ですね。

自分達に都合の悪い記録を消してしまう日本の官僚にこそ見てもらいたい木簡ですね。

 

上野の森美術館を後にして旧岩崎庭園に向かいました。

実はここも初めてでした。

東京には名所、旧跡が沢山あって行き尽くすのは大変です。