貨幣博物館に行ってきました | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

kyoritsu-utsunomiyaのブログ

ブログの説明を入力します。

興味があって貨幣博物館の初見学です。

東京駅から徒歩8分でした。

東京駅八重洲口を出て常盤橋を渡って直ぐでした

道路を挟んで向かい側は日本銀行本店

こちらも見学可能ですが、予約制です。

日本銀行分館の中に貨幣博物館はありました

貨幣博物館、もちろんお金にまつわる博物館です

入場無料、予約不要です。

ただし、厳重な入館チェックがありました。

空港のようなX線チェックです。

貨幣博物館物の中に入る手前には3人のパネルが展示されていました。

田中啓文氏のパネル

田中氏は古銭の収集家、研究家で自前の銭幣館を大正12年にオープンさせています。

この田中氏のコレクションが日本銀行に寄贈されて現在の貨幣博物館の元になっています。

この人が居なかったならば、この貨幣博物館は存在していないのです。

コレクター冥利に尽きますね。

渋沢敬三氏のパネル

言わずと知れた渋沢栄一の孫、直系です。

仙台の二高から東京帝国大学経済学部に進み、横浜正金銀行や第一銀行、渋澤倉庫などに籍を置いています。

ロンドンにも留学しており、夫人は三菱の創業者の岩崎弥太郎の孫娘、という絵に描いたようなエリート、華麗なる一族の一人です。

戦前には日本銀行総裁、戦後には大蔵大臣を務めています。

文化財保護に理解のあった渋沢敬三は田中啓文氏と親交があり、その縁で銭幣館のコレクションを引き受けたそうです。

郡司勇夫氏のパネル

元々は田中啓文氏の元で銭幣館のコレクションの整理や研究に従事していた方でした。

戦後にGHQによって銭幣館のコレクションの中の金貨などが接収の対象になった際に「これは金ではなく文化財です」と力説して接収を免れたそうです。

日本銀行の職員となって貨幣博物館でも研究を続け、著書もあります。

 

この郡司氏のように占領下でも正論を堂々と主張した方がいたのですね。

このような日本人がもっと多ければ「GHQが行なった焚書や封書検閲は国際法違反だ」となっていたかもしれません。

更に「東京裁判は茶番、違法だ!」「原子爆弾投下も国際法違反、ジェノサイドだ!」となっていたかもしれません。

脱線しました。

日本銀行の営業免状も展示されていました

明治15年10月10日から30年間の営業許可証でした。

署名捺印しているのは時の大蔵大臣、松方正義です。

薩摩出身で大蔵大臣や総理大臣を務め、最後は元老・公爵にまで上り詰めています。

日清・日露戦争ではその財政面を支援する意見を強く述べ、開戦を主張して明治帝の信頼が絶大だったとされている方です。

勤王志士としての活躍が無い唯一の元老と言われています。

薩摩藩閥だけで出世したとも言われていて、政治家の尾崎行雄は「松方は鈍重で、もし薩摩人でなかったら総理大臣になれなかったろう。先輩が皆没したため回り回って薩摩の代表になったにすぎない」と酷評しています。

大蔵大臣になる前の明治10年(1877)〜明治12年(1879)までの期間、渡欧しています。

ちなみに明治10年と言えば西南戦争が勃発した年です。

同郷先輩の西郷隆盛が死した年に渡欧に出かけている事になります。

渡欧した際にフランスの蔵相レオン・セイから入れ知恵をされて(僕の私見です)中央銀行制度と金本位制を導入するように強く勧められ、挙句にはパリのロスチャイルド家当主のアルフォンス・ド・ロスチャイルドとも会っています。

その頃から国際金融資本家の手先(これも僕の私見です)になっていたのだと思います。

女好きでも有名で15男11女、なんと26人もの子供がいます。

国際金融資本家の手先と言い、女好き、子沢山と言い、渋沢栄一と瓜二つです。

ちなみに松方正義の三男の松方幸次郎はあの「松方コレクション」の松方です。

上野の国立西洋美術館に所蔵されている西洋絵画の膨大なコレクションです。

海外で保管されていたコレクションはロンドンの倉庫の火災や日本の敗戦によってフランス政府にかなり没収されたりして全部は日本に戻って来ませんでした。

連合国が犯した交際法違反の1つです。

やっと1959年にフランスから返還(フランスは返還ではなく、あくまでも寄贈という立場を取っていますが)されました。

しかし、コレクションが返還された時にはすでに松方幸次郎はこの世に居ませんでした。

さぞかし無念だった事でしょう。

かなり脱線してしまいました。

毀損兌換銀行券交換規則

紙幣(銀行券)が破れてしまった時などの交換規則を定めたもので1886年(明治19年)に発効されています。

この頃から破れたり一部欠損した紙幣を交換できる決まりがあったのですね。

 

ここまでが入り口の前の展示です。

これからやっと展示室の中に入ります。

中は貨幣、紙幣だらけでした。

時系列的に貨幣、紙幣の話をしていきます。

先ずは日本最初の貨幣です、以下の貨幣などの画像は貨幣博物館のホームページから引用しています。

 

歴史で暗記しました、和同開珎708年

銅銭ですが、一部銀銭も作られたそうです。

発行された当時は和同開珎1枚で米1合、平城京の作業員が1日働いて和同開珎1枚だったそうです。

現代の感覚からするとお米は貴重品だったのでしょうか?

この後、お米の生産を上げて税収アップを計るために施行されたのが「墾田永年私財法」743年ですよね。

土地の私有化の始まりです。

これによって貧富の差が出てきて、自分の財産を守るための武士の出現に繋がるのです。

また、脱線です。

和同開珎の後はこのような貨幣が鋳造されています

958年に発行された乾元大宝を最後に日本国内では銭貨の発行を停止してしまいます。

理由は国による大規模工事(平安京造築など)が減少して、国が銭貨を支払う機会が減少して、銭貨の使用機会そのものがなくなっていったためのようです。

そして、徐々に昔のような米や布が貨幣に代わっていったようです。

物々交換に戻ってしまったのです。

世界はデジタル通貨や仮想通貨などと騒いでいますが、そのうちに物々交換に戻る日が来るかも?

 

日本に輸入された中国宋時代の銭貨

上記は出土する銭貨の上位10個だそうです。

しばらくは物々交換経済だった日本に再び銭貨の時代が訪れます。

宋からの渡来銭です。

12世紀中頃の平安時代末期になると宋から輸入された渡来銭が普及し、国もその流通を認めるようになります。

やはり、重さのある米や布による物々交換よりも圧倒的に便利だったのと宋で大量に鋳造されて余っていたようです。

 

このような壺に入れて保管していたようです(へそくり?)

宮崎県で出土したもので約7,700枚の渡来銭が入っています。

渡来銭は江戸時代になるまで日本国内で流通していたそうです。

しかし、渡来銭の輸入も徐々に減少してしまい、日本国内で鋳造された銭貨は粗悪なものが多く銭貨経済が混乱して来ました。

そこで16世紀(室町、戦国時代)に入ると各地で鉱山、特に銀山の開発が進められ銀貨、金貨を貨幣とする経済に変わっていきました。

この時に開発された鉱山が世界遺産に指定された島根県の石見銀山です。

長さ16cm、重さは370gの石州銀貨

石見銀山から産出した銀を使った銀貨は「石州銀」と呼ばれたそうです。

実際には売り買いの際に金額分の銀貨を切り取って使用したそうです。

銀貨が主流でしたが東北や関東では金の産出も豊富でした。

特に甲斐(現在の山梨県)では甲州金、と呼ばれる金貨が流通していて、武田信玄の重要な財源にもなっていたそうです。

甲州金貨は重さによって数種類あったようです

金貨の重さは4進法でした。

1両=4分=16朱=64糸目、という単位です。

1両が約15gでした。

この4進法は江戸時代まで続きます。

尾張徳川家の「亀甲桐」の紋が刻まれている分銅金

まさに戦国時代の工芸品と言えますね。

非常時の備蓄用に作られていたようです。

これ1つが約100匁なので375g、1匁(もんめ)という単位は3.75gだそうで勉強になります。

ちなみにこの分銅金の形は現在でも使われており、地図記号の銀行がこれです。

銀行だけはこの形、知らないとピンと来ませんよね

分銅金の形状を知っていれば納得です。

また一つ歴史を知って、頭良くなりました。

日本最古の紙幣である「山田羽書」です

初めはお伊勢参りの参拝客用に地域通貨として流通していたようです。

しかし、紙幣は藩内で流通する「藩札」や地域通貨の域を出ませんでした。

江戸時代の主流はやはり金貨、銀貨、大判小判です。

徳川家康が作った金貨

大きい方から慶長大判、慶長小判、慶長一分金。

小判が1両、大判は10両、一部金は4進法なので1/4両です。

 

徳川家康が作った銀貨

大きいものが慶長丁銀、小さい3つは慶長豆板銀。

江戸時代初期には銀50匁(187、5g)が金1両として取引されていたそうです。

この銀貨を製造していた場所が現在の「銀座」なのは有名です。

金貨を製造していた場所は「金座」、今の日本銀行本店の辺りでした。

 

幕末には外国との交易も始まり、外貨と国内通貨を交換する必要が出てきました。

そこで取り決められたのが「交換比率」ですが、これが曲者で日本にとって不利になっている取り決めでした。

嘉永7年(1854年)、ペリーの2度目の来日で取り交わされたのが日米和親条約です。

日米和親条約では「洋銀1ドル=一分銀1枚」と定められました。

しかし安政5年(1858年)、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランス5カ国との間に不平等条約として知られる修好通商条約を結びました。

この条約には同じ種類の貨幣は品位(銀や金の含有量)に関係なく同じ重さで通用することが定められました。

いわゆる「同種同量の原則」という曲者です。

「銀貨4枚→金の小判3枚→銀貨12枚」のカラクリ

日本では金の価値が外国ほど高くなかったために起きたものです。

外国の銀貨4枚を日本に持ち込むと金の小判3枚と交換できてしまったのです。

この小判3枚を海外に持っていけば銀貨12枚と交換できてしまうのです。

まさに「錬金術」です。

当時の金銀の価格は「日本が金1g≒銀5g」「外国では金1g≒銀15g」だったので日本では外国よりも金が割安であったため、日本から海外へ金貨が大量に流出しました。

安政6年(1859年)、金貨流出を懸念した幕府は、開港日の前日になって天保一分銀より純銀量が多い安政二朱銀を発行し「洋銀1ドル=二朱銀2枚」で交換させようとしたようです。

しかし、アメリカ初代駐日総領事ハリスが「同種同量の原則」を主張し、原則通り「洋銀1ドル=一分銀3枚」という交換比率となってしまいます。

アメリカ総領事のハリス、こいつも女好きでした

下田で一番人気の芸妓の「きち」をお妾にした話は「唐人お吉」として有名です。

 

しかし、日本人もやられっ放しではありません。

徳川幕府は対策として万延元年(1860年)、含有される純金量を1/3に減らした品位の劣る金貨を発行して金と銀の交換比率を国際水準としたことで、海外への金貨の大量流出はやっと収束しました。

しかし、その反動で国内ではインフレーションが発生してしまいました。

インフレーションを揶揄した錦絵も描かれています

慶応元年(1865年)の歌川広重の作品で、値段が高騰した米や魚、野菜を木から引き摺り下ろす様子を描いています。

フランス人に通じるウィットを感じさせますね。

 

アメリカにならい、日本でも明治5年(1872年)に国立銀行条例が出来て、それに基づいて日本各地に国立銀行が設立されました。

いわゆる「ナンバー銀行」というやつです。

ただし、これらの銀行は本来の意味の国立ではなく「国法によって設立された銀行」という意味ですので、本来ならば「国法銀行」と呼ぶべきものです。

第一国立銀行は現在のみずほ銀行の前身ですし、第二国立銀行は横浜銀行の前身です。

仙台の第七十七国立銀行や高松の第百十四国立銀行は現在でも七十七銀行、百十四銀行として現存していますよね。

国立銀行の推移、変遷の一部(Wikipediaより引用)

この国立銀行が発行する紙幣は当初は兌換券だけだったのですが、明治9年(1876年)の国立銀行条例改正によって不兌換紙幣の発行が許されるようになり、全国各地に国立銀行が乱立してしまいました。

もちろん金銀と交換出来る兌換紙幣と違って、不兌換紙幣は信用の元となる金銀がない紙幣ですので、信用度は低く全国的なインフレになっていきました。

松方正義氏、渡欧した際にロスチャイルドと会っています

明治14年(1881年)、国際金融資本家の手先の松方正義が大蔵大臣に就任しました。

明治16年(1883年)には国立銀行条例を大きく改正し国立銀行の発券業務を停止させ、信用度の低い不兌換紙幣を整理していきました。

中央銀行制度を世界中に広げたい国際金融資本家達は日本の中央銀行としての日本銀行を明治15年(1882年)に設立させました。

日本銀行券の発券が始まり明治18年(1885年)には金銀と交換出来る兌換紙幣が本格的に流通することとなりました。

明治18年、最初の日本銀行券は「大黒札」です

「大黒」とはもちろん七福神の大黒様です。

ちなみに江戸時代に銀座の経営を任されていた湯浅氏が幕府から与えられた姓が大黒で、鋳造した銀貨に大黒の刻印が打たれていました。

姓が「大黒屋」という小学校の同級生がいました、何か関係あるのかも?とふと思い出しました。(珍しい苗字は50年以上経っても憶えているものですね)

初期の日本銀行券は銀貨と交換できる兌換銀券でした。

初めて知りました。

拾圓紙幣は「日本銀行兌換券」です

あくまでもこの紙幣を日本銀行に持っていくと銀貨と交換します、という預かり証的な存在です。

この頃はまだ「銀本位制」でした。

日本銀行を設立した松方正義は渡欧した際にロスチャイルドなどの国際金融資本家から金本位制への移行を指示されていたのですが、当時の日本は銀本位制だったので、まだ金本位制への移行は難しかった状況でした。

しかし、明治27、28年(1894年、1895年)の日清戦争で日本が清に勝利し、その賠償金を使って金を蓄え金本位制に移行して国際標準となりました。

明治32年(1899年)の拾圓紙幣

これは10圓金貨と交換する、という証書なのですね。

このようにしばらくは紙幣は「兌換券」という立場だったのですが、大東亜戦争中の昭和18年(1943年)には紙幣から「兌換券」の文字が消失してしまいました。

昭和18年(1943年)からは兌換券では無くなりました

昭和17年(1942年)に公布された日本銀行法により、日本銀行券は金貨と交換不可能になりました。

券面の金貨引換文言が消え、「日本銀行兌換券」は「日本銀行券」となってしまいました。

大東亜戦争(第二次世界大戦)中で紙幣を金への兌換どころではなかったはずです。

もちろん兌換券では無くなったので、信用度は落ちたのだと思います。

1971年まではドルだけが金との兌換紙幣でした(日経新聞のサイトから引用)

米ドル紙幣も1971年(昭和46年)までは銀行に持っていくと金と兌換(交換)してくれました。

アメリカ経済の凋落(欧州からのアメリカへの輸出増加、ベトナム戦争の戦費増大など)のために、この兌換制度が崩れたのがニクソンショックです。

ここに金本位制が消滅し、紙幣はあくまでも国の信用だけで使用する紙切れになってしまったのですね。

 

現在の日本銀行は厳密には国の機関ではなくて、民間企業として東京証券取引所(東証)に上場している株式会社です。(知っていましたか?)

日経新聞に「今日の日本銀行の株価」として記載されています。

しかし、実際には株の売買は殆どなされていないのが実態です。

日本銀行は株式会社ではあるけれども「日本銀行法」という特別な法律によって設立された認可法人で政府の出資が55%、という規制があります。

一応、民間会社という体裁ではあるけれども、政府が55%の株主、という形態です。

では残りの45%は誰が保有しているの?ですが明白になっていません。

普通の上場している株式会社ならば株主名簿があって、誰が何%の株式を保有している、という情報が公開されていますが日本銀行法ではそれがありません。

ここが中央銀行制度の怪しいところです。

45%の株式を保有しているのがロスチャイルドを中心とする国際金融資本家だと言われています(間違っていたら御免なさい)

 

「戦争で負ける」という事はこのような事にも繋がっているのだと暗い気分になりながら貨幣博物館を後にしました。

東京駅までの帰路で、また常盤橋を渡ると右手奥に巨大な銅像を発見しました。

ひっそりとした場所なので目立ちませんでした。

女好き、子沢山の渋沢栄一像でした

2024年からの新1万円札の表紙を飾る事になっています。

偽札が出回っている訳でもない紙幣をわざわざ変える必要がありますか?

一万円札の表紙が「学問の進め」「文明論之概略」「西洋事情」などの著書のある平等主義者、努力家、出自にとらわれない能力主義者である福沢諭吉では困ることがあるのだと思っています(これも私見です)

渋沢栄一の「足元にも及ばない」僕でした。

お金の歴史は人間の歴史、だとつくづく思いました。

「Follow the Money」お金の流れを追えば真実が見えてくる、というアメリカの言葉を思い出しました。