興亜観音にお参りに行って来ました | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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熱海の伊豆山にある観音様です。

新型コロナワクチンを2回接種したので、少し気が大きくなって遠出してみました。

初めての参拝です。

元々は支那事変(日中戦争)の戦没者(日本側、中国側とも)を慰霊供養する目的で陸軍大将の松井石根の発願で昭和15年2月に建立されました。

昭和15年2月はまだアメリカと開戦する前になります。

敗戦後、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の判決が実行されて昭和23年12月23日に刑死した7名の戦犯(A級戦犯は6名、松井石根自身はA級戦犯ではなくB級戦犯として7名に含まれています)を祀っています。

この7名の遺灰は密かに興亜観音に持ち込まれていました。

昭和34年になって、初めてそれを明らかにし「七士之碑」が建立されました。

その後、昭和43年には前述のA級戦犯も含めた殉国刑死者1068名(B級及びC級戦犯です)を祀ってあります。

熱海駅から路線バスで12分でした

バスの本数は極端に少ないのでスケジュールを立てる際は事前に要チェックです。

タクシーなら時間は気にしなくても大丈夫ですが。

バス停からは結構な急坂を登ります。

参道の入り口にある碑

熱海のこの伊豆山の近くに居を構えていた松井石根陸軍大将が支那事変(この碑では日支事変)で亡くなった日中双方の兵士の慰霊として観音様を建立した経緯が書かれています。

やはり参道の入り口にある「決意の證」

1068名の殉国刑死者の出身地と名前が刻まれています。(すべては写真には写っていません)

これが興亜観音、高さは1丈、約3.3mもあります

中国の南京を向いて合掌しています。

支那事変での南京攻略を指揮していたのが興亜観音の発願者の松井石根大将でした。

南京攻略という言葉は日本軍から見た言葉だと思います。

一方、「南京大虐殺」という言葉もあります。

中国側では30〜40万人もの軍人及び民間人が日本軍によって殺害された、という主張もあります。

南京攻略には諸説ありますが、僕的には3〜5万人が殺害されたと認識しています。民間人もある程度は含まれていたと思います。

日本近現代史に詳しく書籍も多い秦郁彦氏の言うように「南京事件」と言う表現が適当と思います。

興亜観音様の他にも石碑が3つ建立されています

写真の向かって右が「七士之碑」、中央が「殉国刑死1068霊位供養碑」、左が「大東亜戦争戦没戦士菩提碑」です。

「七士之碑」の石碑の字は敗戦直後の総理大臣吉田茂(現財務大臣の麻生太郎の祖父)の手によるものです。

7名の殉国刑死者による句

「すめろぎ」とは天皇のことです。

天皇陛下に戦争責任が及ばない事になって本望です、という気持ちでしょうか。

興亜観音の現住職の伊丹さんと記念写真

伊丹さんのお父上が松井石根大将と懇意だった縁で興亜観音の住職を昭和60年まで務めていたそうです。

現在はお嬢様である写真の伊丹さんが引き継いで守っています。

これから先は興亜観音の本堂にある書や写真の話題です。

絞首刑直前に書かれた7名の署名

両手を縛られていたために筆跡は稚拙なものとなっています。

松井石根大将が自分史を認めた漢詩

明治、大正、昭和の軍人は教養が凄かったです。

上記の漢詩を日本語に訳したもの

僕もこのような辞世の句が書き残せたら至福です。(おそらく教養的に無理だと思いますが)

東京裁判で被告人全員の無罪を主張した国際法が専門のインドの「パール判事」

実は東京裁判が終わって随分経ってから興亜観音を訪れたそうです。

この写真はパール判事の若かりし頃のものです。

靖国神社にもパール判事の顕彰碑があります。

東京裁判の写真も展示されていました

全景ではありませんが、裁判の様子が伝わって来ました。

いつも目にしていた東京裁判の写真(特に有名なのがヘッドフォン姿の東條英機元総理大臣)ですが、このように大規模な裁判だったとは知りませんでした。

この写真を見て、何故か胸が熱くなりました。

ちなみに東條英機氏の父上は岩手県出身の陸士1期生でした。

優秀な軍人だったようですが薩長閥では無かったために冷遇されたそうです。

「八紘一宇」を表現した絵画

大東亜戦争の戦争目的の1つであった八紘一宇(はっこういちう)、敗戦後は放送禁止用語になっています。

本来は「世界人類、1つ屋根の下で皆で仲良く暮らしましょう」と言う意味でした。笹川良一氏がテレビCMで謳っていた「人類皆兄弟」と同じニュアンスの言葉だと思います。

しかし、支那事変や大東亜戦争の時代になると「日本を中心にアジア諸国を植民地から解放しよう」「日本の下に世界をまとめる」と言う本来の平等な精神から外れた意味でも使われるようになったようです。

ちなみにこの絵画の左端に署名されている作者の「日本真琴」とは西村真琴氏の事です。

明治16年生まれ、北海道大学の教授となりマリモ研究や人間型ロボット「学天則」の作成で知られた方です。

この西村真琴氏の次男はドラマの二代目水戸黄門役で有名な西村晃氏だそうです。

初めて見た陸海軍幹部勢揃いの写真、黒服が海軍、カーキ色が陸軍だと思います

昭和15年秋に広島で撮影されたもので、このような写真も興亜観音の本堂にあります。

最前列中央には昭和天皇が写っています。

現在のような広角望遠レンズが無かった時代の写真です。

真珠湾攻撃を発案実行した帝国海軍連合艦隊総司令官の山本五十六氏も写っているそうですが、判別できませんでした。

昭和15年秋と言えば、まだ日米開戦が回避出来る状況にあった頃です。

昭和天皇を始め、陸海軍人等にもまだ開戦前のような緊張感は窺えません。

この後、近衛内閣による日支和平案潰し、アメリカによる石油や鉄鉱石の禁輸、ハルノートの受諾拒否、真珠湾攻撃、と連合国や共産主義勢力の仕掛けた罠によって奈落の底に引きずり込まれてしまった日本でした。

僕が生まれる前の話をしても歴史が戻る訳ではありませんが、歴史から学ばない事にはお先真っ暗です。

また、機会があればお詣りに来たいです。