古記録によって、開山・尊重院日静(そんじゅういんにちじょう)上人 が、日蓮聖人の高弟である中老僧・日法(にっぽう)上人作の大黒天立像(丈5寸・約15センチ)を、甲斐国(山梨県)身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ) から江戸(東京)に移し、経王寺に安置したことがわかります。この大黒天像は、のちのちたびかさなる火災から焼失を免れたため「火伏(ひぶ)せの大黒天」 とあがめられ、庶民の信仰を集めることになります。 大黒天像を彫造した日法上人は、日蓮聖人の本弟子である六老僧(六上足、六長老)に準ずる直弟子で、十二中老僧(または十八中老僧)の筆頭に挙げられた高僧です。中老僧は、日蓮聖人の葬列に列し、身延山の西谷御廟(ごびょう)の守塔輪番を務めた直弟子たちで、そののち諸国に分散して、日蓮宗の教化伝導(きょうけでんどう)に深く尽力しました。

 

 

また、日法上人は、すぐれた建築師、仏師としても知られています。 元禄年中(1688~1703)、庶民の生活は一応安定し、物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んになります。十大祖師巡拝や鬼子母神巡拝、名尊巡拝などの巡拝路が設けられたのも、この頃のことです。 経王寺の「開運・大黒天」が世に知られだしたのも、この時期のことと思われます。 享保十年(1725)二月十四日、青山久保町から出火した火災によって、経王寺も類焼しています。この災禍によって、経王寺が所蔵していた過去を物語る諸書類が、残らず灰燼と帰してしまいました。ただし諸堂宇はただちに再建され、かろうじて火難を逃れた大黒天像をはじめとする諸尊像は無事に安置されたようです。 文政十二年(1829)になると、「開運・大黒天」を安置する大黒堂は、たいへんな賑わいをみせました。とくに「甲子日(かつしのひ)」の大黒天開帳の日には、一層の賑わいにつつまれました。 甲子日は六十日に一度めぐってくる縁日で、「きのえねの日」とも呼ばれています。

 

 

きのえは木の兄(え)、ねは植物では子(ね)(実または種)、動物では鼠があてはめられて考えられます。仏教における大黒天は大国に通じるところから大国主命(おおくにぬしのみこと)と解され、大国主命が鼠に救われた神話により、甲子日を縁日とするに至りました。 甲子日は一年に六回あるので六甲子といい、中国の陰陽道(おんようどう)の信仰から、十一月と一月の甲子日が最も重んじられてきました。経王寺の大黒天祭も、年六回の甲子日に行われています。 大黒天は、インドでは魔訶迦羅天(まかからてん)と呼ばれ、仏法を守護し飯食を豊富にするとされましたが、日本では食厨の神として伝来し、大国主命と習合して福神と考えられるようになり、深く民間信仰に浸透していきました。 写真 江戸時代の時勢地理、人事家宅、生業通貨をはじめ、社会上下の状態、方言俚語(りご)など、きわめて精細な観察を記した書物である『守貞漫稿』には、「毎月甲子の日は、大黒天を祭る。三都とも二股大根を供す。また江戸にては、七種菓子とて、七種七銭のそか(そか)を供す」とあります。

 

 

また、江戸年中行事を記した書物の白眉といわれる『東都歳事記』にも「今日俗家にも此(この)神を祭り、二また大根・小豆飯・黒豆等を供す」とあり、大黒天信仰が深く庶民に浸透していたことを物語っています。 安政二年(1855)のこの年は、経王寺では七月十九日から五十日間にわたって、大黒天の大開帳が行われています。それに先立ち三月と七月には、経王寺十八世・止静院日保(しじょういんにっぽ)上人の手によって、『開運大黒天神略縁起』が再訂されました。 なお経王寺の「開運・大黒天」は、昭和六十年(1985)七月五日に、新宿区有形文化財に指定されています。経王寺では、年六回の甲子日には「大黒天祭」が催され、毎年多くの方々で賑わいをみせています。

 

 

今年の御開帳日はこちら>>