慶長三年(1598)に当時は武蔵国豊島郡(むさしのくにとしまごおり)市ヶ谷田町と呼ばれていたところ(現・新宿区市谷田町)に、尊重院日静上人(そんじゅういんにちじょうしょうにん)という僧によって開創されました。    江戸時代も元禄年中(1688~1703)に入ると、物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んになります。 経王寺の開運大黒天が世に知られだしたのも、この頃です。経王寺は檀信徒とともに寺門を守り続けました。 つづく享保十年(1725)には青山久保町からの出火で経王寺は類焼し、所蔵諸書の悉くが灰燼と帰してしまいましたが、諸堂宇は直ちに再建され、火難を逃れた大黒天像をはじめ諸尊像は無事に安置されました。

 

 

日静上人については、越中国(えっちゅうのくに)(富山県)または甲斐国(かいのくに)(山梨県)の人で、寛永七年(1630)七月十七日に示寂(じじゃく)したことのほか、一切が不詳です。ただ、日蓮聖人の高弟である中老僧(ちゅうろうそう)・日法(にっぽう)上人作の大黒天像を身延山(みのぶさん)から江戸に移し、経王寺に安置したことは古記録に明らかです。 明暦三年(1657)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)がきっかけとなって、寛文五年(1665)頃から、江戸城を火災から護るための外濠の開削、見附の普請が着工されました。 このため、寛文八年(1668)に経王寺境内地は「御堀御用地」となり、市ヶ谷川田久保町に移転しています。

 

 

享保十四年(1729)には、堂舎、諸尊の再建、改修が為されています。 天保七年(1836)、雑司が谷鼠山(やねずみやま)(現・目白台一帯)二万八千余坪の地に、豪壮な長耀山感應寺(ちょうようざんかんのうじ)が建立されました。時の十一代将軍・徳川家斉の還暦祝賀のための造立でしたが、天保十二年(1841)に「天保の改革」の一環として、この大寺は政治的に廃寺と決まり、いわゆる「感應寺廃寺事件」が起こりました。 市ヶ谷田町に住み、熱心な日蓮宗信者であった畳職人・小嶋太兵衛は、この廃寺事件に悲憤し、永年にわたって寺社奉行にその再建を訴えつづけました。しかしその訴えは取りあげられず、ついに文久三年(1863)一月二十五日に、太兵衛は菩提寺(ぼだいじ)である経王寺において、愛用の畳包丁で割腹自害して果てました。太兵衛の壮烈な死は衝撃を起こし、幕末の混乱期にあった寺社奉行は感應寺の再建を許し、筑土・感應寺が再建されましたが、この寺もほどなく潰寺となってしまいました。

 

 

慶応四年(1868)、江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立すると、神仏分離令が発令され、全国に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が広まります。多くの寺院や仏像、仏具が破壊され、廃寺や無住となる寺院が続出しました。 しかし、この困難な時期も、経王寺は檀信徒とともに寺門を守り続けました。明治十年(1877)四月十二日に、経王寺はまたまた回禄の厄に遭い、諸堂宇はすべて灰燼と帰してしまいました。しかし幸い、大黒天像をはじめとする諸尊像は難を逃れています。 その後、経王寺は歴代住職と壇徒家の尽力によって、罹災の打撃から立ち直り、大正・昭和の時代を経て、現在も檀信徒と共に生きるお寺として新たな歴史を歩んでいます。