「東条英機」が激怒

「竹槍では戦えぬ」と「大本営発表」に疑問を呈した「毎日新聞の記者」

   に「届いたモノ」    神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

          2024.7.6     (現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

 私が 2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』

(講談社ビーシー/講談社)は、これまで 約30年、500名以上におよぶ 戦争体験者や遺族をインタビュー

してきたなかで、特に 印象に残っている 25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを

書き記した1冊である。日本人が体験した 未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちは

なにを語ったか。

 

自由にものが言えない時代

    昭和19(1944)年 2月17日、日本海軍の中部太平洋の拠点・トラック島が、アメリカ海軍機動部隊
の艦上機の猛攻を受け 壊滅した。この事態に、東條英機内閣は 19日、一部の閣僚を交代させる
内閣改造を行い、さらに 21日には、行政と軍の統帥を分離する 従来の慣例をやぶって、軍需大臣、
陸軍大臣も兼務する 東條首相(陸軍大将)が 陸軍統帥トップの参謀総長を、海軍大臣嶋田繁太郎大将が
海軍軍令部総長を兼務する人事を断行した。
   これは事実上、「 軍 」の意思が 政治を支配するもので、この決定には マスコミはもちろん、
陸海軍の内部にさえも 反発、あるいは 疑問をもつ向きが少なくなかった。
    前任の参謀総長・杉山元陸軍大将は、「 統帥権 (陸海軍を指揮する天皇の大権) の独立」を盾に
反対したが、東條に押し切られた と伝えられる。 たとえ 反対意見を持つ者がいても、出版法、
新聞紙法、国家総動員法などの法により 言論が統制され、自由にものが言える時代ではなかった。 
 
    2月22日、東條内閣は 改造後初の閣議を行った。これまで、閣議は 首相官邸で行われてきたが、
東條首相は このときから閣議を宮中で行うよう改めている。 翌2月23日、新聞各紙は この閣議での
東條首相の発言を顔写真入りで いっせいに報じた。 
    毎日新聞は 一面トップの扱いで、 〈 皇国存亡の岐路に立つ 首相・閣議で一大勇猛心強調 
秋(とき) 正に危急、総力を絞り 果断・必勝の途開かん 転機に処す新方策考へあり 〉 との見出し
 (原文の漢字は旧字体だが新字体で表記する) でこれを報じた。
 
見かけだけの精神論

    その内容は、 〈 一・統帥と国務の 更に一段の緊密化を具現し、政府と国民の持つ すべての力を

併せて 米英撃滅に体当りさせ大東亜戦に勝ち抜かねばならぬ。  一・今こそ 重大画期的の時であり、

われわれは 一切を白紙に返し 一切の毀誉褒貶を棄て 大胆率直に最善と信ずる途に突進せねばならぬ。

 一・重大戦局に処する途は 積極果断が御奉公の要諦である、各大臣 及び各方面の指導者は この

牢固たる決意が必要である。 〉 というもので、

     結論として 〈 国民は この際一大勇猛心を奮ひ起すの秋、そこに必ず難局打開の道がある。 〉 

〈 私は 茲に 皆様方と共に必勝を固く信じて 一死報国の決意を新にし、政戦両略の一致を文字通り

具現し、飽くまでも 積極果断なる施策に当り、以て 聖戦の目的を達成して、聖慮を安んじ奉らんこと

を固く期する次第である。 〉 と、「 転機に処す新方策 」の具体策が どこにも書かれていない空疎な

精神論が並ぶ。

 

国家存亡の危機を説く
   それに対し 毎日新聞は、同じ1面に、 〈 勝利か滅亡か 戦局は 茲まで来た 眦(まなじり)決して
見よ、敵の鋏状侵冠 〉 と、 〈 竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ 〉 と題する2本の
記事を掲載した。 〈 勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た 〉の記事では、昭和17年8月、米軍の
ガダルカナル島上陸に始まり、南太平洋の日本軍の拠点・ラバウルをめぐる攻防戦と、中部太平洋の
ギルバート諸島、マーシャル諸島、トラック島と攻め上ってくる米軍の動きを、日本の南と東から
迫りくる 鋏(ハサミ)の刃に例え、 〈 トラック 乃至は同方面の制海権 乃至は制空権を 万が一にも
敵の優越に委ねたる場合は 如何なる事態を招来するかは 地図を 繙(ヒモト)けば一目瞭然であろう。〉
 〈 国家存亡の岐路に立つの事態が、開戦以来 二年二ヶ月、緒戦の赫々たる 我が進攻に対する敵の
盛り返しにより 勝利か滅亡かの現実とならんとしつつあるのだ。 〉 〈 大東亜戦争は 太平洋戦争
であり、海洋戦である、われらの最大の敵は 太平洋より来寇しつつあるのだ、海洋戦の攻防は
海上において決せられることは いふまでもない、しかも 太平洋攻防の決戦は 日米の本土沿岸において
決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪を巡って戦はれるのである、本土沿岸に
敵が侵攻し来るにおいては 最早万事休すである 〉 と説く。
 
日本に必要なもの

    〈 竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ 〉の記事では、 〈 今こそ われらは 直視

しなければならない、戦争は 果して勝つてゐるか、ガダルカナル以来 過去一年半余り、わが忠勇なる

陸海将士の血戦死闘にもかかはらず 太平洋の戦線は 次第に 後退の一路を辿り来つた血涙の事実を

われわれは深省しなければならない 〉 

    そして、航空兵力こそが 主兵力となり 決戦兵力となった現在の太平洋の戦いにおいて、航空戦が

膨大な消耗戦であることから 目をそらしてはいけない、海上補給にせよ、潜水艦戦にせよ、飛行機の

掩護なしには成り立たず、 〈 ガダルカナル以来の戦線が 次第に後退したのも、アッツやギルバート

の玉砕も、一に わが海洋航空兵力が 量において 敵に劣勢だったためではないか 〉 〈 航空兵力こそ

勝敗の鍵を握るものなのである 〉 と述べ、さらに、 〈 敵が 飛行機で攻めてくるのに 竹槍を以ては

戦ひ得ないのだ。帝國の存亡を決するものは わが航空戦力の飛躍増強に対する わが戦力の結集

如何にかかつてゐるのではないか。 〉 と締めくくっている。 いずれも、冷静に情勢を分析した上で

戦局の見通しを述べ、日本が戦う上で必要なことを提言している。

 

刺激的な社説
    加えて この日、毎日新聞は 〈 今ぞ 深思の時である 〉 と題した社説を掲載した。その論調は
「 増産、国民生活、防空、疎開など 決戦体制が いまなお整備されていない 」ことを主眼にしている
が、 〈 内南洋トラック島に殺到した 敵の機動部隊が その後どうなつたかは、国民にとつて 実に
大なる関心事であつた。廿一(21)日附 大本営発表は 完全に真相を国民に知らしてくれた。
猛襲二日にして 敵は撃退された。どこまで撃退されたか われわれには分からないが、少なくとも
トラック島からは 撃退されたのである。だが、この間 我が方の被つた損害は どうであるか。真相は
ここにあると思ふ。〉 と、暗に「大本営発表」に疑問を呈し、 
  〈 必勝の信念だけで 戦争には勝たれない。最後の勝利は 信念あるものに帰するは相違はないが、
それには 他の条件において均衡が取れた上のことであつて、必勝の信念のみでは 勝てるわけのもの
ではない。〉 〈 わが国が 今日まで取り来り、かつ 現在なほ 取りつつある施策の方針によつて
最後の勝利を獲得する確信があるのか。 〉 と、チクリチクリと 刺激的な文言が並んでいる。
 
東條首相の逆鱗に触れる

    全体として、 〈 国民は この際 一大勇猛心を奮ひ起すの秋、そこに 必ず難局打開の道がある。〉 

との東條発言に疑義を唱え、否定するトーンに終始している。これは、具体的な方策もないまま 戦争

に負け続け、国民には 竹槍をもって 敵の近代兵器に立ち向かうような精神主義を押しつけ、政治と

軍事をほしいままにする東條首相の独裁に対する、新聞社としての せめてもの抵抗だったのだろう。 

 

    やはり、と言うべきか、この紙面が 東條首相を激怒させた毎日新聞は 大本営陸軍報道部長から

掲載紙の発禁処分を受け、編集責任者と筆者の処分を求められた。「竹槍事件」と呼ばれる。 

毎日新聞社は これを受け、編集責任者を処分したが、〈 勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た 〉と、

〈 竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ 〉の記事を書いた新名丈夫(シンミョウ タケオ)記者の処分

は見送った。

  すると、記事執筆からわずか8日後、新名に 郷里・香川県の第十一師団歩兵第十二連隊への

召集令状が届く。新名は 明治39(1906)年生まれ、慶應義塾大学法学部に在学中の大正15(1926)年、

徴兵検査を受けたが、弱視のため 兵役を免除されていた。37歳になっての突然の召集を、本人も

周囲も、東條による「懲罰召集」であると受け取った。

 

「死」と隣り合わせの若者たち
   新名は、海軍の記者クラブである「 黒潮会 」の主任記者を務めていた。東條を激怒させた記事は、
海軍の主張を色濃く反映し、代弁したものとも読める。
   新名の召集に 海軍は抗議するが、陸軍は、新名と同様、これまで 徴兵を免除されていた老兵250名
を一緒に召集することで、新名1人の「懲罰召集」ではないとの詭弁を弄した。 
結果的に、海軍の抗議が功を奏して 新名は 3ヵ月で召集解除になるが、同時に召集された それ以外の
者は その後、硫黄島に送られ全員が戦死したという。 
 
    海軍は、陸軍による再召集を避けるため、新名を 南西方面艦隊附の報道班員として フィリピンに
送り込んだ。そこで 新名は、10月、米軍による フィリピン侵攻を迎え、数少ない航空戦力で敵空母
の飛行甲板を使用不能にさせる目的で始まった、爆弾を積んだ飛行機による体当り攻撃、すなわち
神風特別攻撃隊(特攻隊)の隊員たちと身近に接することになる。 
 
    もともと、陸軍と海軍は 総じて仲が良くない。東條首相に盾ついて懲罰召集を受け、それを
海軍が身請けする形で 最前線に送り込まれた新名は、隊員たちから好意的に受け入れられた。
新名も、「死」を目前に控えた若者たちに、誠意をもって接した。 新名が遺し、いま縁あって 私の
手元にある原稿綴りには、内地に送った記事のほかにも 写しを許された遺書や遺詠が並び、
はしばしに〈 隊員の悉くは詩人だ。〉 といった感想や、 〈 ある隊員の手帳には こう書かれてゐた。
死の恐怖は 目の悪戯なり 心の悪戯なり 落花散る前の振舞なり 〉 のように印象に残った言葉が
刻まれている。
 
偉大なジャーナリストの最期
    昭和19年暮れになると、いよいよ ルソン島への敵上陸が近いことが予想され、第一航空艦隊
司令長官大西瀧治郎中将は、報道班員たちを 内地に帰すことを考えた。大西は、南西方面艦隊附から
第一航空艦隊附になっていた新名を呼び、特攻隊の様子を内地に伝えることを命じて、
「 第一航空艦隊からの出張 」という名目で内地に帰らせた。 東條内閣は すでに退陣し、小磯内閣に
代わっていたが、かつて、「竹槍事件」で 陸軍に懲罰召集された新名を そのまま帰すと、ふたたび
召集される恐れがある。「出張」という名目にしたのは そのためだった。新名が 道中、不自由する
ことのないよう、大西は「 通過各部隊副長 」宛てに、「 道中御便宜取計相成度 」との添え書きを
持たせた。
   日本に帰った新名は、その後も 人間爆弾「桜花」部隊の初出撃や、厚木の第三〇二海軍航空隊など
の前線部隊を取材し、いっぽうで、終戦工作の立役者である 井上成美大将 や 高木惣吉少将など
海軍中枢へもインタビューしている。
 
   戦争が 日本の無惨な敗戦に終わった後、新名は、特攻隊員たちの記録が GHQ(連合国軍最高司令官
総司令部)に接収され、あるいは 散逸するのを防ぐため、自分をふくめた報道班員たちの取材記録の
多くを 個人で保管し続けた。それらの記録が 初めて世に出たのは、昭和42(1967)年、毎日新聞社が
刊行した写真集『 あゝ航空隊 続・日本の戦歴 』のなかでのことある。 
   新名は 戦後、特攻隊の慰霊祭には 必ず参加し、かつての隊員たちと往時を語り合った。また、
ことあるごとに 元隊員たちに回想記の執筆を勧めた。新名と特攻隊員たちの交流は、新名が亡くなる
まで続いた。
    昭和56年、病に倒れ、横浜の病院に入院した身寄りのない新名を、多くの元特攻隊員が交代で
見舞い、つきっきりで看病したという。昭和56年4月30日、死去。享年74。 
 
   「竹槍事件」から80年。いままた、鹿児島県警が 捜査批判を展開していたネットメディアを
強制捜査し、取材情報等の入ったパソコンを押収。不祥事の内部告発者を特定し逮捕するなどという、
強権国家のごとき非道が報じられている。 昔も いまも、情報を伝える側に求められるのは、
新名丈夫のような客観的な目と熱い心、そして 権威に屈しない「肚」を持つジャーナリストでは
ないだろうか。