「 学校は 本来の役割を忘れてしまった 」

日本の学校が子どもにとって"しんどい場所"になってしまった根本原因 

かつての日本人は「 子どもは壊れやすいもの 」と知っていた 

                                               2024/04/19       PRESIDENT Online

   学校は 何のためにあるのか。神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは「 今の学校は 子どもたち

を格付けする評価機関のようなところになっている。それは 本来の学校教育の目的ではない。

子どもというのは『なんだか よくわからないもの』であるということから始めるべきなのだ 」

と指摘する――。

 

学校は「格付け」するところではない

   今の学校は 子どもたちにテストを課して、その成績で「格付け」する評価機関のようなところに

なっている。しかし、私は 子どもたちを査定して、評価して、格付けするというのは、学校教育の

目的ではないと思う。学校は 子どもたちの成熟を支援する場だと思う。

   子どもというのは「 なんだかよくわからないもの 」なのである。それでいいのだ。そこから

はじめるべきなのだ。子どもたちを まず枠にはめて、同じ課題を与えて、その成果で格付けする

というのは、子どもに対するアプローチとして間違っている。

 

   昔の日本では 子どもたちは 七歳までは「聖なるもの」として扱うという決まりがあった。

渡辺京二の『逝きし世の面影』には、幕末に 日本を訪れた外国人たちが、日本で 子どもたちが 

とても大切にされているのを見て驚いた という記述がある。だが、これは 日本人が子どもをとても

可愛がっていたというのとは ちょっと違うと思う。

  可愛がっているのではなく、「 まだ この世の規則を適用してはいけない、別枠の存在 」として

敬していたということではないかと思う。

 

子どもは 七歳までは「異界」とつながる「聖なる存在」だった

   中世以来、伝統的には そうなのである。子どもは 七歳までは「異界」とつながる「聖なる存在」

として遇された。だが、その年齢を過ぎると、そのつながりが切れてしまう。アドレッセンスの

終わり というのは「 異界とのつながり 」が切れてしまう年齢に達したということである。

そうやって 人間は「聖なるもの」から「俗なるもの」になる。

   だから、「 この世ならざるもの 」と この世を架橋するものには童名を付けるという習慣がある。

「酒呑童子」とか「茨城童子」とか「八瀬童子」とか。彼らは この世の秩序には従わない存在である。

    牛飼いもそうだ。牛飼いは その当時、日本列島 最大の獣である牛を御する者であるから、異能の

持ち主、聖なる存在である。だから、牛飼いは 大人でも童形をして、童名を名乗った。京童もそうだ。

別に 彼らは子どもではない。大人なのだけれど、「 権力にまつろわぬ人たち 」だから「子ども枠」

にカテゴライズされた。

    船もそうだ。船には「 なんとか丸 」という童名を付ける。船は 海洋や河川という野生のエネルギー

が渦巻く世界と人間の世界の「 間に立つ 」ものである。野生と文明の境界線上に生きるものだから

「子ども」枠に類別される。

 

刀剣には 童名を付けられてきた

   刀剣も そうだ。刀剣には 童名を付ける。 能『土蜘蛛』の蜘蛛切り丸や『小鍛冶』の小狐丸とか、

名刀には 童名を付ける。私は 居合をやるので、自分の刀を持っている。刀を構えると、刀は異界と

つながっているということが実感される。刀を正眼に構えると、野生の巨大なエネルギーが 刀を

通じて発動するのがわかる。自分の身体が そのエネルギーの通り道であるということが実感される。

   実際に、刀で 兜を斬った人がいる。もちろん、人間の筋力では 兜なんて切れるはずがない。

でも、刀が深々と切り込んだ跡がある兜が いくつも残っている。人間の力ではできるはずがないこと

が刀を持つとできる。それは、刀を通って発動するのが 人間の力ではなくて、自然の力だからである。

それは 真剣を持って稽古したことがある人なら 誰でも感じることだと思う。刀は 自然の力と人間の力

の間を架橋する。だから童名を付ける。

   そういう伝統的な「子ども」観が 日本にはあった。私は これが 今 まったく顧みられなくなった

ことを嘆いている。

 

学校は 子どもを「聖なるもの」から「この世」に誘導する装置

   学校というのは、この「聖なるもの」である子どもを迎え入れ、彼らを ゆっくりと「聖なるもの」

から切り離して、「この世」に誘導してゆく装置である。子どもたちが 本質的に「謎めいたもの」

であるのは、彼らが「異界」や「外部」とつながっているからである。

それを切り離して、こちらの世界に連れてくるという、とてもデリケートな「切り離し作業」を

学校では行わなければならない。

   子どもたちが「聖なるもの」である以上、教室もまた 道場やお寺の本堂や神社の拝殿と同じく

「超越的なもの」や異界との交流の場だということになる。

『周礼』には 士大夫が学ぶべき「六芸」が挙げてある。 礼、楽、射、御、書、数。君子が学ぶべき

一番のものが 礼である。「鬼神」に仕える作法のことである。「この世ならざるもの」に仕え、

それを適切に敬するための作法を 古代の君子はまず学んだ。

 

日本では 武道のことを古くは「弓馬の道」と言った

   それから 第二が 楽。音楽である。音楽とは「もう聴こえなくなった音」と「まだ聴こえない音」

の両方を 今 ここで聴き取れないと聴取することも、演奏することもできない技芸である。

リズムもメロディも「過ぎた時間」と「未だに到達しない時間」の両方に意識の触手を伸ばすことが

できる人間にしか感知できない。時間意識の拡大によってはじめて 人間は 過去を顧み、未来を予測

することができるようになる。そして、そのタイムスパンの中で、不安や後悔といった感情を知り、

因果や矛盾や確率といった概念を知ることになる。

 

   射は「弓を射る」、武道的な身体運用のことである。先に述べた通り、「 この世ならざる

エネルギー 」を調えられた心身を通過させて発動する技術のことである。

御は「 獣を御す 」、野生獣を馴致させて 有用な働きをさせる能力である。牛飼いがそうであった

ように、御の術もまた「異界」と「この世」の境界線上に立つ能力である。

日本では 武道のことを古くは「弓馬の道」と言った。射と御を合わせたものが武道に当たる。

 

子どもは壊れやすいもの、傷つきやすいもの

   学校は 今では 六芸のうち「書」と「数」だけしか教えなくなった。これは 子どもたちを 最初から

「こちらの世界」のフルメンバーとして遇することである。私は、それは違うだろうと思う。

学校は 子どもたちを「あちらの世界」から「こちらの世界」へ そっと移動させる、極めてデリケート

な作業を求める場なのである。半ば 野生の存在である子どもたちを文明化していくというプロセスは

「アドレッセンスとの決別」を 子どもたちに強いることなのだから、しばしば 彼らは学校に通うこと

それ自体で激しい痛みを経験する。

   かつての日本人は、子どもは壊れやすいもの、傷つきやすいものだと知っていたので、丁寧に

扱った。異界に まだ半身を残している「聖なるもの」だと知っていたので、子どもを「敬する」仕方

をわきまえていた。それは もう現代社会の常識ではない。

   それでも、直感に すぐれた教師たちは、学校教育が子どもたちにとって 外傷的経験になるリスク

を感知して、子どもたちを傷つけないことを 優先的に配慮している。けれども、そのような配慮が

人類学的な深い意味を持つことを理解している人は 教育行政の要路には たぶん一人もいない。