2024.03.24 クルマ情報サイトーGAZOO.com
中国地方には、東西に縦貫する高速道路が 3本ある。最初に開通したのは、中央部を貫く中国道
(正式名称:中国縦貫自動車道)で、その14年後に 山陽道が全線開通。山陰道は現在も建設中だ。
中国地方の主要都市は すべて海岸近くにあり、中国道が通過する中央部には、津山・新見・三次
といった小都市しかない。
中国地方最大の都市である広島市も避けるように、中心部から20km以上北を通過している。
地形が険しく 設計年次が古いため、カーブが多いことでも 有名だ。
いったい なぜ中国地方最初の高速道路は、こんなルートになったのか。
その裏には、田中精一という一人の民間人の提案があった。現在は忘れられているが、
「高速道路の父」とも呼ばれる人物だ。
中国道を提唱したのは「高速道路の父」田中精一
田中氏は もともと地方の一実業家(その後参議院議員)に過ぎなかったが、国を思う強い志を
持った人物だった。戦後、日本の将来計画を研究し、マッカーサーや昭和天皇に直訴するなど、
積極的な活動を行ったが、その提案のひとつが、「国土開発縦貫自動車道構想」という高速道路計画
だった。
この計画に 多くの政治家が賛同し、昭和32年(1957年)、国土開発縦貫自動車道建設法が成立。
日本の高速道路計画の最初の一歩となった。一民間人の構想に、与野党問わず 多数の政治家が
動かされたのは、田中プランに強い説得力があったからである。
引用:国土交通省「これまでのネットワークの経緯と検証」
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/hw_arikata/pdf9/3.pdf
各路線のルートに関しては、多くが構想通りとはならなかったが、中国道に関しては、ほぼ
そのまま実現した。
田中プランの特徴は、あえて 大都市を避け、山地を通るルートを取っていることだ。その典型例が
中国道である。 おかげで 中国道は、山陽道の開通後 交通量が激減し、メリットの少ない公共投資
になってしまった。 今では 「 いったいナゼここに? 」としか思えないが、その背景には、戦後
間もない時期の日本の社会事情があった。
国土開発縦貫自動車道建設法のベースとなった田中プランには、次のように記されていた(要旨)。
その1
「 北海道から九州にいたる延長約3000キロを、高速道路によって 最短距離・最短時間で結ぶ 」
高速道路は 基本的に1本(だけ)の背骨だった。当時の日本の国力を考えたら、何本も建設する
のは現実的ではないと考えたのだろう。
その2
「 日本は 国土の20%程度の平野部に人口が集中しており、山地高原地帯の土地利用度は極めて低い。
これら未開後進の山地高原地帯を縦貫することで、国民生活領域を拡大し、外に失った領土を内に
求める 」
あえて 大都市を避けて 山地を通るのは、開発を兼ねてのこと。戦前、日本は 余剰人口を満州国
などへ移民させていたが、戦後は それが不可能になったことから、開発を「内に求める」しかない
と考えたのである。加えて 当時の日本は 食糧難。 田中プランのルートなら、高速道路によって
貴重な耕地が潰されることもない。
その3
「 これに接続する主要な道路2500キロを建設し、この組み合わせにより、高速自動車交通網を
新たに形成する 」
一本の背骨を山地に通すことにより、沿道が開発され、一本だけなので 建設費は節減できる。
途中の都市へは、肋骨のように道路(一般道)を伸ばすことで 利便性を確保する。
当時の日本の状況を考えれば、なるほどとうなずかされる。
これに対して 建設省の官僚は、特に 東京―名古屋間のルート(現在建設中のリニア新幹線ルートに
酷似)について 難色を示し、海岸沿いを走る現在の東名ルートを推して 大論争となった。
ただ、中国道に関しては すんなりそのまま実現した。
田中プランは、中国道についてこのように記している。
「 中央部を行くことにより、山陽山陰両地域を勢力圏におさめることができる。瀬戸内海に沿う
路線も考えられるが、両地域の開発に同時に資するため、多少 地形上の不利を忍んで敢えて
本路線を選ぶ 」
確かに不利だった。特に 山陽地方からは、不満の声が相次いだ。国土開発縦貫自動車道建設法成立
の9年後、新たに「国土開発幹線自動車道建設法」が制定され、山陽道も 予定路線に加えられた。
1987年の第四次全国総合開発計画では、山陰道も 追加され、中国地方を縦貫する高速道路は、
結局3本になった。
現在、大阪から九州方面にクルマで向かう場合、ほとんどのドライバーは 山陽道を選ぶ。
中国道ルートより 距離で 23km短く、制限速度も高いので その分速く到着できる。途中の岡山市や
広島市が目的地ならなおさらだ。山陽道の開通後、中国道の交通量が激減したのは、当然の成り行き
だった。
かく言う私も、これまで 中国道の中央部を走ったことがなかった。そこで今回、建設中の山陰道
の現状確認も兼ねて、中国地方高速道路行脚の旅に出ることにした。
交通量の落差の激しい中国道と山陰道
「 中国道は過疎地を通る 」と言っても、起点の吹田JCTから神戸JCTまでは まったく別で、
6車線をクルマが埋め尽くしている。中でも 宝塚IC-西宮山口JCT間は、断面交通量 12万4014台/日
(2010年度)を抱え、途中の宝塚トンネルは、西日本最大級の渋滞ポイントだった。
2018年に 新名神が 神戸JCTまで開通した効果により、2021年度は 7万7255台に大幅減少、渋滞
は ほぼ解消されたが、依然として この区間は、大阪から西へ向かう大動脈となっている。
神戸JCTで 山陽道が分岐すると、多くのクルマが そちらに流れ、交通量は漸減。鳥取道が分岐する
佐用JCT(兵庫県)付近では、約1万2000台まで減少する。この交通量は、東北道で言えば 盛岡
より北、松尾八幡平IC付近に近い。
佐用JCTから 鳥取道に乗り入れる。暫定 2車線、税金で建設されたため 料金無料の新直轄区間だ。
2013年の開通まで、鳥取市は 全国で最後に残された「 高速道路がつながっていない県庁所在地 」
だったが、現在は 関西経済圏の一部となった。暫定2車線でも、高速道路があるのとないのとでは
大違いだ。
鳥取市から先は 山陰道となる。山陰道は、日沿道(日本海沿岸東北道)等とともに、日本に
残された数少ない海岸沿いの未全通路線。総延長380kmのうち、開通区間は 220kmにとどまって
いる。 ただ、鳥取市-松江市間に関しては、残る未開通区間は 14kmのみ。そこも 国道に渋滞は
ほとんどなく、移動は快適だ。
もともと 山陰道と並行する国道9号線には、都市部(米子-松江付近)を除いて混雑は少なかった。
しかし、主要ルートが 国道のみという状況は、非常時、極めて脆弱だ。
山陰道は ほぼ全線暫定2車線、制限速度 70km/hのため、国道に対する速達効果は限定されるが、
大部分が 料金無料なので、開通区間では 通過交通の多くが山陰道に移行した。
2021年の調査では、鳥取-松江間の山陰道は、平均して2万台/日以上の交通量があり、
松江市中心部(4車線・無料)では 5万台に達している。これは、全線4車線(有料)の中国道中央部
の2倍から5倍に相当する。
山陰道の問題点は、暫定2車線であることと、途中に 3か所、有料区間が点在することだ。
東から順に「米子西-東出雲間」「松江玉造-出雲間」「江津-浜田間」である。無料区間から
有料区間に入ると交通量は ほぼ半減し、その分、並行する 国道9号線で渋滞が頻発している。
有料区間が まだらに現れるため「まだら高速」と呼ばれ、以前から批判の対象だったが、現在も
まだらのまま。これは なんとかする必要がある。
出雲から先の国道9号線は、海岸沿いを走る快走路だが、主要道が これ1本だけというのは、
やはり厳しい。
山陰道は、全線無料に移行した上で、できるだけ早期に益田市まで全線開通させるべきだ。
無料化すると混雑する区間は、4車線化が必要となるが、山陰地方で 全国一律のバカ高い料金を
取れば、宝の持ち腐れとなる。
浜田市から浜田道に乗り入れ、広島北JCTから中国道に合流し、大阪を目指した。
実際に走り実感した 中国道を走る魅力と問題点
初めて走る中国道の山間部は新鮮だった。まず、景観が美しい。山々に囲まれた盆地や谷を、
山の中腹を縫うように走るため、とにかく眺めがいい。山間ルートなのに トンネルが少ないことにも
驚かされる。
確かに カーブや勾配は多い。中国道最大の名物は 急カーブだ。岡山・広島県境付近は、曲率半径
300mから250mといったカーブが続き、一部区間は 制限速度が60km/hとなっている。
しかし 交通量がまばらなので、悪天候でなければ 快適なワインディングロードのように爽快だ。
急ぐ旅でないならば、山陽道より あえて中国道を選びたい。
もちろん問題点はある。中国道の広島北JCT-山口JCT間は 特に交通量が少なく、約3000台/日
と、並行する山陽道の10分の1程度にまで落ち込む。SAPAも 縮小傾向にあり、食事を取るのも
一苦労。ガソリンスタンド空白地帯(広島県・安佐SA-山口県・美東SA間148km)も発生している。
せめて GWなどの交通集中期は、料金を大幅に割引して、山陽道の混雑緩和を図ったらどうか。
ただ 中国道を走ると、戦後間もない時期、日本の将来を真剣に考えた一人の男の熱意を感じずには
いられない。その熱意は 空振りに終わった面もあるが、とにもかくにも こうして歴史を作った。
今後も 中国道は、山陽道・山陰道のリリーフエースとして、存在感を発揮するだろう。