平沼 騏一郎(おかやま人物往来) (朝日新聞マイクロ版) 他。

         (1867~1952)

 


  1867年(慶応3)津山藩士・平沼晋の次男として生まれる。
    長兄、平沼淑郎は東京大学卒業後、岡山県尋常師範学校教諭、教頭などを経て、
    早稲田大学学長になる。 
  1872年(明治5)父に連れられて上京し、津山藩出身で 宇田川榕庵の養子・宇田川興斎
   に就いて漢学、同じく 津山藩出身の箕作秋坪の三叉学舎で英語、漢文、算術を学ぶ。                                                 1878年(明11)東京大学予備門に入り、83年(明16)東京大学法学部に入学。
   この年、東京大学の学位授与式が、前年まで夜に挙行されていたのに昼間に挙行される
   ことになった。そんなささいなことに学位授与式に臨むはずの学生たちが不満を抱き、
   上野から日暮里まで旗をたてて行進し、その後 食堂などに乱入して暴れる。
        このため、学生147名 退学処分。この中に騏一郎もいた。心ならずもこの騒ぎに参加した者
   が多数いるということで 60名ほどに復学が許され、騏一郎も復学。
    (在学中に 帝国大学法科大学に改組)。家計を支えるために司法省の給費生となり、
           司法省入りの義務を課せられる。東大法科では 穂積陳重の講義(「法学通論」「羅馬法」
          「法理学」)に感銘を受け、穂積から「司法権の尊厳」を保つことを学ぶ。

 


      1888年(明21)帝国大学法科大学を首席卒業。司法省参事官試補、民事局勤務、以後判事。
       当時 弱小官庁だった司法省への入省は不本意で、内務次官の白根専一から内務省に
    勧誘され、内務省を希望していた。佐賀藩出身の江藤新平(1834~74)が作り上げた
    司法部(司法省・検事局・裁判所)は 肥前・土佐中心に藩閥勢力が強かったが、平沼世代
    の前後から司法官僚の中心は、帝大(東大)出身の学士官僚に移行していた。

  1899年(明32)東京控訴院検事。以後 検事畑を進み、大審院検事、司法省民刑局長、
    司法省刑事局長、司法次官を歴任。

     第1次桂内閣(1901~06)末期、実業界の資金不足のため、民間から資金を集める方法
    として、社債の相談を持ちかけられた司法部の平沼が、社債信託法採用を具申。当時は
    まだ 英国のみに存在する法律だったが、曽祢荒助蔵相にじかに頼まれ、池田寅二郎試補
    を相手に ほとんど平沼一人で社債信託法を立案し、審査を経て成立させた。

      1907年3月 鈴木喜三郎(1867~1940)と、司法制度の取調のため欧米各国に派遣される。
  1908年 刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を
    検討する「犯罪人異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、
    指紋による前科登録が導入される。

  1910年(明43) 幸徳事件(大逆事件)。
     検事として 幸徳秋水(1871~1911)らに死刑を求刑。

      警察や政府によるフレームアップ(でっち上げ)により、幸徳をはじめとする
     多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、証拠不十分のまま 1911年
       1月18日 24名へ死刑、2名へ有期刑の判決が下った。死刑となった24名のうち、
     1月24日 秋水を含む 11名、翌日 管野の死刑執行⊛。
       ⊛ 秋水・管野の他、明科事件で逮捕された宮下・新村・古河と、森近運平・
        奥宮健之・大石誠之助・成石平四郎・松尾卯一太・新美卯一郎・内山愚童。
        なお、高木顕明・峯尾節堂・岡本穎一郎・三浦安太郎・佐々木道元の5名は
        特赦無期刑となり、服役中に獄死。

       秋水は審理終盤に「 一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な
      公判を恥じよ」と陳述。


       秋水略伝:1901年「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行し、帝国主義を批判。
          同年12月10日 田中正造、足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴。
           この直訴状は、まず秋水が書き、田中が手を加えたもの。ただし、
          多くが直訴状の執筆依頼に 後難を恐れて尻込みする中、秋水だけは
          断らずに書いたとも言う。
 

 

  1912年(大正元)12月21日 検事総長(~21 10月5日)。

 

     騏一郎の思想の柱は、第一に、天皇が統治の主体で、祭政一致の政治を行うべきで、

    したがって、美濃部達吉の天皇機関説に反対、無政府主義者や社会主義者は許しがたいもの

    であった。ナチスの「国家社会主義」や近衛文麿の「新体制運動」「大政翼賛会」の動向

    なども 皇室の廃止につながると危険視した。

      第二の柱は、日本古来からの良さを確保した上で外国の美点を採り入れるということ。

    「国本社」を主宰し、日本精神主義、国粋主義的な思想を宣伝。他に無窮会、修養団の活動

    も支援した。

 

  1913年4月 法相の松室致と、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並

    判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を 一挙に休・退職とし、

    443人にのぼる異動を発令。 

     それまでの大逆事件などでの功績から、特に1910年代以降、司法部内での検察権の独立

    が公然と実態化し、絶対的優位化した。

  1921年 大審院長。裁判所構成法改正で、検事総長の地位が 司法大臣、大審院長と

    同レベルに引き上げられた。

  1922年 刑事訴訟法改正。起訴便宜主義が取り入れられ、検察官の権限は大幅に拡大された。

      1923年  法曹会会長として 会報『法曹記事』を改題し『法曹会雑誌』を創刊し、判例に準ずる

    「法曹会決議」の発表を開始。

     9月1日 関東大震災。その直後には大審院長辞任。

    辞任の翌日、治安維持法の前身となる 勅令治安維持の為にする罰則に関する件が下り、

    <平沼 - 鈴木喜三郎 - 小山松吉 ライン>が思想検事系列の形成。

     9月6日 司法大臣(~24 1月)

  1926年(大15) 4月 倉富勇三郎議長のもとで枢密院副議長就任(~36 3月)。

  1931年

    9月18日 満州事変

    12月 犬養毅内閣
     犬養、濱口内閣が進める ロンドン海軍軍縮条約に反対して 鳩山一郎とともに

    「統帥権の干犯である」と政府を攻撃。犬養のこの行動は、統帥権が政治的手段になる事

    を軍部に教えた形となり、日本の民主主義と政党政治が衰退する要因となった。

     当時の『東京朝日新聞』は、統帥権を政治利用した犬養らを非難しており「醜態さらした

    政友会は正道に還れ」という記事を書いている。なお、このときに犬養とともに統帥権問題

    を起こした鳩山一郎は、軍部を台頭させた人物として太平洋戦争後、GHQにより公職追放

    された。
     9月に勃発した満洲事変をめぐり、第2次若槻内閣は閣内不統一に陥り、総辞職。

    元老・西園寺公望は後継に犬養を推薦。

     


  1932年春、フランスの女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスが 国本社の本部を訪れ、

    本多熊太郎の同席のもとで、平沼騏一郎にインタビュー(『1932年の大日本帝国』)

   
 第2次若槻内閣(1931)や濱口内閣(1929~31)への攻撃、天皇機関説排撃事件などで、

   元老西園寺公望に嫌われており、本人の強い希望にもかかわらず首相候補に推されることが

   なく、また 枢密院議長に就任できずに 副議長に留め置かれたままであった。
            なお、西園寺側は 天皇機関説事件の黒幕を平沼と誤認していたが、当時 平沼は枢密院議長

          ではなく 内閣総理大臣として軍部を統制することを目指しており、平沼の陰謀とすることは

          難しい。辞職を希望する 一木喜徳郎枢相が 後任に平沼を推す一方、平沼派は 一木の後任

          に平沼でなく 清浦奎吾(1850~1942)を推していた。

     5.15事件 立憲政友会犬養毅(1855~1932)首相、武装海軍青年将校らに殺害される。

     西園寺は、事件後も、まだ政党内閣を続けるつもりであり、また、立憲政友会右派の

    森恪(1983~1932)らも、総裁に 鈴木喜三郎を選出し、次期首相に推していた

    (「憲政の常道」では首相死去による内閣総辞職の場合は 与党の後継党首への大命降下)。
    5月26日 斎藤実(1858~1936)内閣(~34 7月)
       1914年 シーメンス汚職事件で海軍大臣を引責辞任したという経歴を持ちながら、

      首相兼外務大臣に任命されたのは、犬養内閣の陸軍大臣・荒木貞夫が元老の西園寺に、

      政党内閣拒絶の意を伝えていたことと、親英米派だった昭和天皇の意向があったという。

    9月15日 日満議定書が締結。

  1933年 国際連盟を脱退。

  1934年 帝人事件 

    これは、平沼が 西園寺と彼が育てた立憲政友会、斎藤内閣を潰すため、司法省の検察庁に

        国策捜査を行わせたという説がある。他方、司法省は 同年の機関紙でプロイセン州司法大臣

    ハンス・ケル『ナチスの刑法』を翻訳出版。
           捜査の手が大蔵省に及び、斎藤内閣は7月、内閣総辞職。

         なお、司法省の裁判官の石田和外らは 1937年 起訴内容は無実無根であるとして

   被告ら全員に無罪判決を言い渡した。

    平沼は、この事件以降は 慎重を期し、西園寺が 政治の表舞台から一歩 身を引いた後、

          国本社を解散するなど、親英米派と妥協することで首相の座に就いたという。

  1936年3月 枢密院議長就任(~1940 12月)。

    5月 思想犯保護観察法。司法省(大臣林頼三郎)からハンス・フランク『ナチスの法制

     及び立法綱要』を翻訳出版。

          なお、この時期 郷土津山の人々が 旧平沼家跡に旧邸を復元し(1937 - 38)、

         平沼に贈呈。この施設は 知新館(旧平沼騏一郎別邸)として現存している。

 

  1937年7月7日  盧溝橋事件

     8月13日 第二次上海事変、日中戦争が本格化。招集の増加(病客車傷痍軍人も参照)。

         召集令状を受けた出征者に千人針を贈る風習が1945年8月の敗戦まで続く。

       21日 中ソ不可侵条約締結

     9月 国民精神総動員。この頃から 検閲の強化や報道が加熱大陸の花嫁暴支膺懲)、

            同調圧力も強まる(非国民およびレッテル貼り)。

     11月   日独伊防共協定。  大本営発表開始(〜1945年8月)。

                 革新官僚の主導で 戦時統制経済開始、戦時体制に移行。

    

 

  1939年(昭14)1月 騏一郎 第35代首相(~8月30日)

     基本的に ほぼ 第1次近衛内閣(1937年6月4日~39年1月5日)の政策・人事を引き継ぐ

    とともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列(無任所大臣)として残留。
     (塩野季彦法相兼逓相、荒木貞夫文相、木戸幸一内相、有田八郎外相、八田嘉明商工相

     兼拓務相、米内光政海相、板垣征四郎陸相の七閣僚が留任。
      
近衛系の末次信正海軍大将(内相)、有馬頼寧伯爵(農相)、風見章(翰長)らの

     熱烈な制度改革論者は除かれた。――― 観念右翼と評される平沼が、新体制運動・

     制度改革論者をナチス型国家社会主義の亜流として警戒していた。)

      対中問題では「爾後国民政府ヲ対手トセズ」という近衛声明に基づき
汪兆銘政権

     成立させ、これと 外交的解決を図ることで 日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような

     中国国民党内部の分断が成功せず、失敗に終わる。
      一方 戦争にともなう経済圧迫に対応するため、第1次近衛内閣以来の国民総動員体制

     を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、

     国民精神総動員委員会などを設置して 挙国一致体制を整えていった。

            4月9日 親日的とされる程錫庚海関(開港場の税関)監督、抗日ゲリラに暗殺狙撃される。

      犯人が潜伏した天津英租界での事件調査をめぐり、イギリスが犯人の引き渡し拒否。

      本間雅晴天津軍防衛司令部の名で 陸軍が英仏租界の交通を制限、英租界を事実上封鎖

                  (天津英租界封鎖事件)。


                  有田・クレーギー協定で、英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発。

            ――→ 7月26日 日米通商航海条約の廃棄通告。

      また、閣内の英米派とドイツ派との対立を深め、政権は混迷。

      野村・グルー会談で 新条約、暫定条約の試みも成功せず、日米通商航海条約は

     1940年1月26日失効。


            5月11日 ノモンハン事件
                              8月20日 ノモンハンで日本軍が記録的大敗。

    8月23日 独ソ不可侵条約 締結。

                 防共を標榜し ドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としつつ 軍事同盟を

     ドイツと討議していた平沼は、日本政府を無視した容共姿勢に転換したドイツのやり方に

     驚き呆れ、8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職。

      なお独ソ不可侵条約締結の発表前から、独ソ接近の情報は世界的にも広まっており、

     7月7日 日支事変二周年の記念式典で、平沼に 新聞記者が「独ソ接近説について如何」

     と意見を求め、平沼は「 通商等の経済上の問題で接近が無いとは 断言が出来ない。

     しかし、政治的に 独ソの間の接近があるなぞとは認めない 」と返答していた。

     

 

       ※ 平沼は、近衛文麿の「新体制運動」に 皇道派軍人とともに批判的な立場をとった

     (二・二六事件以降、皇道派は弱体化していたが、この時期には 陸軍の反主流派として

     いくらか勢力を回復していた)。新体制運動を、ナチスドイツの模倣と見做し反発。

     平沼は、ナチスを社会主義思想の一種として軽蔑していた。

   1940年 7月22日 第二次近衛内閣(~41年7月18日)

     1月下旬 新体制推進派から距離を置くことを考え始めた近衛は、第2次近衛内閣で

     平沼を無任所国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外に追放、皇道派軍人の

     大物・柳川平助を司法相、平沼を内相とした。

      これは、近衛の観念右翼への屈服、新体制運動からの後退を意味するものであった。

      内相に就任した平沼は、財界から批判のあった 経済新体制要綱を骨抜きにし、

     新体制推進派から協力的であるとして賞賛されていた 矢野兼三 富山県知事を休職処分

     したのを手始めに、内務省の人事を一新、この原案を作成した企画院の官僚らを

     共産主義運動・人民戦線運動にかかわったものとして逮捕を指令し(企画院事件)、

     その余波で 岸信介商工次官を辞職に追い込む。

      こうして 平沼はナチス型統制経済を目指す官僚グループを次々に追放。

     また 大政翼賛会を公事結社として 政治活動を禁じ、有馬頼寧らを辞職させ、

               新体制推進勢力をさらに後退させる。

 

       また、平沼は 米国駐日大使 ジョセフ・グルーらと面会し、悪化していた米国との

     関係修復を目指す。

      
このような平沼の行動は 革新勢力の批判を浴び、独・ソ連から帰国した松岡洋右外相

     は 平沼を強く非難し、松岡と平沼は 閣内で対立した。
                  松岡は 陸海軍とも対立し 天皇からも不興を買って、松岡を排除するためだけに、

    1941年7月18日 第3次近衛内閣(~10月18日)が組閣され、松岡は閣外に追放される。
       平沼は、内閣参議・無任所国務大臣となり、自分の代わりに 
田辺治通を内務大臣に

      据えた。

       こうして 平沼は対米関係修復を目指す 第3次近衛内閣での実力者と目され、

     8月14日 右翼団体”勤王まことむすび”に狙撃される(西大久保の自宅)。

       弾丸6発を被弾する重傷だったが一命をとりとめた。

 

     10月18日  東條内閣( ~1944年7月22日) 

     開戦の賛否を討議する開戦直前の重臣会議では、平沼は 開戦に消極的な見解を表明した。
             戦時下では 重臣とし
岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎とともに 東條内閣倒閣に活躍。

     内務省、検察、右翼勢力などに 影で大きな権力をもつ平沼の存在は、和平派重臣にとって

    大きな力であり、平沼の邸宅で 反東條派の重臣の秘密会合が開かれることもあった。

 

                                                                               第八回御前会議

 



  1944年(昭19)7月22日 小磯内閣(~1945年4月7日)

     平沼、東條内閣辞職後の重臣会議では「敬神家」として
小磯國昭を推し、

    小磯内閣辞職後には 他の重臣とともに 鈴木貫太郎を推した。

       1945年4月   鈴木貫太郎内閣(~8月17日)

     平沼、首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となる。

 

                                   ポツダム宣言受諾 経緯 


    ※ 平沼は戦時下、一貫して 和平派重臣では必ずしもなく、和平派と協調するかと思えば

     降伏反対を唱えることもあり、天皇への上奏の折には 明確な主張を見せないなど

     その立場は一貫していない。たとえば 枢密院議長であった平沼は、6月8日の御前会議

     で 次のような意見を述べている。

 

     「 戦況 我に不利なる場合には 民心弛緩し易きものなるを以て 此点に慎を要す。

      民心弛緩に就いては 其の根絶を期するは不可能なるも 之に対する制圧の処置を講ずる

      こと 即ち 権力を以て 之に臨むこと肝要なり。乍然 権力による制圧にては 不良思想の

      表面化を防止するにすぎず。国民思想の根本を矯正するには 之と併用して教化の力

      (教育により感化して善導すること)に依らざるべからず

                                                              (外務省編纂『終戦史録』昭和27年、363頁)

               広島へ原爆投下・ソ連参戦直後、ポツダム宣言受諾を決定する御前会議のメンバー

     であったが、会議の直前、和平派の米内光政海相は「 平沼男爵は和戦どちらにつくか、

     危ないぞ、大丈夫か 」と心配している。この御前会議では 平沼は 曖昧な表現ながら

     ポツダム宣言受諾側に 一票を投じ米内の心配は杞憂におわった。

                  しかし、東郷茂徳外相が受諾案において 天皇の扱いを「 国法上の地位を変更する要求

     を包含し居らざる了解の下 受諾する 」としていたことに異議を唱え、

     「 国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる 」に変更させ、

     連合国から当初の受諾案を拒絶される結果も招いた。

       こうした曖昧な態度は『昭和天皇独白録』で 昭和天皇に厳しく批判され

     「 結局、二股かけた人物というべきである 」と酷評されている。

 

           8月15日  世論全体や強硬派からは和平推進派とみなされており、終戦決定に反発する

                横浜警備隊長であった 佐々木武雄陸軍大尉を隊長とした横浜高等工業学校の学生らの

                「国民神風隊」のテロによって終戦未明、自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。

      平沼も 鈴木貫太郎同様に 二度も 強硬派に命を狙われかけた。

 

                       ポツダム宣言受諾 御前会議

 

     

      大審院長、司法大臣、枢密院議長、内閣総理大臣を歴任し、
男爵の爵位を授けられた

     騏一郎は、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁錮刑に処せられた。

     拘置所内では深夜に泣き叫ぶなどの奇行が多かったという。1952年 病気のため仮釈放。

     8月22日 没(85歳)。