荀子正論

   刑罰とは何か?

 

 【現代語訳】

 

 世俗の説をなす者は、「 いにしえの 統治がゆきとどいた黄金時代には、体刑はなくて 象徴刑

しかなかった。入れ墨の刑は、頭に 黒い頭巾をかぶせて辱める刑であった。はなそぎ(劓)の刑は、

黒く染めた 冠の紐(纓)を付けて 辱める刑であった。去勢の刑(宮刑)は、青白色の膝掛けを

付けさせて辱める刑であった。足切り(剕)の刑は、麻の靴をはかせて辱める刑であった。

死刑は、赤い襟なしの上着を着せて辱める刑であった。 昔の 統治がゆきとどいた黄金時代は、

このように 刑罰すら 穏やかであったのだ 」と言う。

 

 だが これは、間違っている。この者が想定しているような治世であれば、人は もとより犯罪など

犯すことすらなかったはずではないか? つまり 体刑はおろか、象徴刑すら用いる必要がなかった

であろう。しかし 何らかの理由で 人が犯罪を犯すことに至ったとき、単に その刑罰を軽くするので

あれば、殺人犯は 死なずに済むし、傷害犯は 刑罰を受けずに済むこととなるだろう。

 重大な犯罪を犯しながら  刑罰が軽すぎたならば、賢明でもない 一般人は、犯罪者を憎む理由が

なくなってしまう。 ならば、これ以上にないカオスが起きることは 必至ではないか

 

   およそ 人を刑する基本は、暴を禁じて 悪を憎み、かつ それらを未然に抑止するところにある

なのに 殺人犯が死刑とならず、傷害犯が罰せられない というのか。 それは、暴に恵んでやって

賊に寛大であるというのであって、悪を憎むこととは 違う

   ゆえに、象徴刑などというものは、いにしえの統治がゆきとどいた黄金時代に起こったのではない。

それは、ただ今の 乱世に始った ごく近年の現象なのである。いにしえの時代は、そうではなかった。

 

 爵位の序列、有司の官職、褒賞と刑罰、これらは 全て功績と犯罪への応報として作られた。

成し遂げた善事と悪事に応じて、これらの賞罰が 比例して与えられたのであった。

    その一つでも 比例が破られると、乱の始まりとなる徳は 位に応じず、能力は 官職に応じず、

褒賞は 功績に応じず、刑罰は 犯罪に応じない。これは、最悪の事態ではないか

 

   昔、武王は 殷を討って紂(チュウ)を誅殺し、その首をはねて これを 自軍の赤旗に掲げた。

このように、暴虐な者を成敗して 強暴な者を誅するのは、統治の もっとも盛んな時代のしるし

なのである。 殺人犯は 死に、傷害犯は 刑罰を受ける法は、わが国の歴史上の王たちが 常に変わらず

保っていたものであり、いつから始ったのかすら 分からないほど 人類 普遍の法なのである。

   刑罰が 犯罪に比例していれば、よく治まるであろう。しかし 刑罰が犯罪に比例しなければ、

カオスとなるであろう。故に 治世においては 刑罰は かえって厳格なのであり、逆に乱世においては

刑罰は いいかげんで軽くなる治世において 犯罪を犯す罪は きわめて重く乱世においては 犯罪を

犯す罪は きわめて軽くなる

 

   『書経』に、この言葉がある。:

刑罰とは、時代によって 重かったり 軽かったりする。 (周書、呂刑篇)

この言葉の意味は、治世と乱世のことを言っているのである。

 

 

 

 

《読み下し文》
  世俗の說を為す者曰く、治古は肉刑無くして、象刑(ショウケイ)有り、墨(ボク)は黥(ボウ)し、

 劓(ギ)は慅嬰(ソウエイ)し、共(キュウ)は 艾畢(ガイヒツ)し、菲(ヒ)は 對屨(ホウク)し、

 殺は赭衣(シャイ)して 純(ジュン)せず、治古は かくの如しと。

  是れ然らず。以て 治と爲さんか、則ち 人は 固(モト)より 罪に触るること莫かるべし。

 独り 肉刑を用いざるのみに非ず、亦 象刑を用いざらん。以て 人 或は 罪に触るるも、

 しかも 直だ 其の刑を軽くす と為さんか、然れば 則ち 是れ 人を殺す者も 死せず、人を傷つくる者

   も刑せられざるなり。罪 至重にして しかも 刑 至軽なれば、庸人(ヨウジン)は 悪むことを知らず、

 乱 これより 大なるは莫し。凡そ 人を刑するの本は、暴を禁じ 悪を悪(ニク)み、かつ 

 其の未(ミ)を懲らすなり。

  人を殺す者 死せずして、人を傷つくる者 刑せられず、是を 暴を惠みて賊を寛にすると言う、

 悪を悪むに非ざるなり。故に 象刑は ほとんど 治古に生ずるに 非ず、並(マサ)に 乱今(ランコン)

 に起こるなり。

  治古は 然らず。凡そ 爵列・官職・賞慶・刑罰は、皆 報なり、類を以て 相従う者なり。

 一物 称を失するは、乱の端(ハジメ)なり。かの德は 位に 称(カナ)わず、能は 官に称わず、

 賞は 功に当らず、罰は 罪に当らざるは、不祥 焉(コレ)より大なるは 莫し。

  昔者(ムカシ)武王 有商(ユウショウ)を伐ちて、紂(チュウ)を誅し、その首を断ちて、之を

 赤旆(セキハイ)に 県く。それ 暴を征し 悍(カン)を誅するは、治の盛(サカン)なり。

 人を殺す者は 死し、人を傷つくる者は 刑せらる、是れ 百王の同じき所なり、未だ 其の

   由来する所を知る者 有らざるなり。刑 罪に称えば 則ち 治まり、罪に 称わざれば 則ち 乱る。

 故に 治には 則ち 刑重く、乱には 則ち 刑軽し。治に犯すの罪は 固より重く、乱に犯すの罪は 

 固より軽きなり。 書に 曰く、刑罰は 世にて 軽く 世にて 重し、とは、此を 之れ謂(イ)うなり。

 

 

 

🔶 現代の考え方

   知って欲しい 刑罰のこと - 日本弁護士連合会

                         裁判員制度

  2 どうして刑罰を与えるのか? 

  ~ 再び 罪を犯すことのないように  ~ 

      裁判所は,被告人が有罪だと判断したとき,どういう目的で刑罰を科すのでしょうか。 

  もちろん,犯罪に対しては刑罰が言い渡されることを広く社会に知らせて,犯罪を予防する

      という意味も重要ですが,ほかにも「刑罰の目的」についての考え方があります。 

        その一つは,その人が 再び罪を犯すことのないように教育する目的(教育刑の考え方), 

        もう一つは,罪に対して 報復をする目的(応報刑の考え方)を重視する立場です。 

 

        皆さんは,「 目には目を,歯には歯を 」という,古代バビロニアのハムラビ法典 の言葉を

      聞いたことがありますか。応報刑の意味は,この言葉に代表されます。犯罪に対しては,

      その責任に見合った苦痛を与えるという考え方です。

        しかし,それだけでは,罪を犯した人の改善・更生をかえって妨げることになりかねません。 

      例えば,長期間,刑務所に収容し 社会から隔離してしまうと,社会性を失い,刑務所を出た後,

      社会で自活していく能力が失われてしまい,長く服役させれば 生まれ変われる,すなわち,

      再び犯罪を犯さないようにできるとは限りません。

         逆に, 服役期間が短いと,再犯防止の教育には時間がたりず,かえって「ムショ帰り」の 

      レッテルだけが残り,社会復帰の妨げとなることもあるので,むしろ,短期間の実刑よりは

      執行猶予(猶予期間内に 他の刑事事件により再び有罪判決を受けない限り,刑務所で服役しない

      ですむこと) として 社会内で生活しながら更生させた方が,再犯防止の効果が高いという指摘

      もあります。 

         罪を犯した人も いずれ社会に復帰するのなら,「応報」よりも むしろ,その人が二度と罪を

      犯すことのないように教育することが より重要ではないでしょうか。 裁判員の皆さんには,

      目の前の人が 改善更生し,社会に復帰するには どうしたらよいか,どのように教育を施して

      いけばよいか,という視点を是非もって,刑罰を選択していただきたいのです