能登半島地震で自衛隊はなぜ逐次投入

阪神・淡路大震災の教訓が生かされない原因はどこに

      2024.1.24.    石川慶子(危機管理/広報コンサルタント)

                   - エキスパート - Yahoo!ニュース

 元旦に発生した能登半島での地震における救助活動について、自衛隊が「逐次投入」された

ことへの批判が広がってきています。 危機発生時は 初動が重要であり、災害や遭難など 人命に

かかわる場合には、最初の72時間で救助しないと生存率が急落することは 既によく知られています。 

   当然、発災直後に 多くの自衛隊が派遣され、救助活動をしている と信じていましたので、

「 逐次投入 」だったとする報道には 驚かざるを得ません。

  

   1995年に発生した阪神・淡路大震災(以下、阪神大震災)では 自衛隊の派遣が遅かったのでは

ないか、と批判され、それを教訓として、2011年の東日本大震災 や 2016年の熊本地震では迅速

だったはずではないか、と 多くの方が思ったのではないでしょうか。

 

   そこで 今回は、阪神大震災を取材し、1月1日の夜に いち早くX(旧ツイッター)で「 現地の部隊

に任せるのではなく、速やかに 第1空挺団や中央即応連隊をヘリコプターで 珠洲市や輪島市に投入

すべき 」と具体的に指摘したジャーナリストの奥山俊宏さん(元朝日新聞記者)に 今回の問題点と

阪神大震災の教訓について解説していただきました。

 

阪神大震災での逐次投入が頭をよぎった

   1月1日 能登半島地震の夜、奥山さんは 自衛隊の部隊名まで具体的に記載して 政府がやるべきこと

を Xに投稿されました。何らかの危惧があったのでしょうか。

   ― 能登半島地震の震源のすぐそばの、能登半島の先端にほど近い 珠洲市の高屋町というところで、

   かつて 関西電力が 原子力発電所の建設を計画していました。その取材のために 1999年秋、

   羽田空港から小松空港に入って、レンタカーを借りて 金沢市内に何泊かし、金沢から高屋町の

   あたりに行って うろうろしたことがあります。 それとは別に、2012年、羽田から能登空港に

   飛んで、輪島市や七尾市を 車でうろうろしたこともあります。 そういう経験から、珠洲市、

   輪島市の あのあたりは 陸路で行くと 本当にものすごく遠いけど、航空機を使えば、羽田から

   ひとっ飛びで入れる、という感覚がありました。

 

    元旦の夜、全日空のウェブサイトを見て、どうやら 民航機は 能登空港を使えなくなっている

   と 察しはついたのですが、滑走路が 必要な固定翼の飛行機は無理でも、ヘリコプターならば

   能登空港を拠点に使えるだろう、と思いました。

      陸上自衛隊の中部方面隊だけでなく、距離的に 比較的近い首都圏から大型ヘリで部隊を能登空港

   に入れるべきだ、と思いました。 特に、陸上総隊の直轄部隊、具体的に言うと、第1空挺団や

   中央即応連隊を 大型ヘリで すぐに派遣するべきだ、と思いました。能登空港から先、高屋町あたり

   は 中型ヘリを使って行くことになるだろう、と思いました。

    後で知ったことですが、1月2日午前1時49分の日経の速報で、能登空港の設置管理者の石川県

   が 陸上自衛隊に能登空港への着陸を許可した、と報じられています。その日経報道によれば、

   陸自は 県に 夜間照明を自前で用意する と伝えたそうです。実際、国土交通省の発表によれば、

   2日から 救援のためのヘリが能登空港を使ったそうです。

   その先についても、テレビ報道やユーチューブの映像を見ると、珠洲市内の公園や輪島市内の

   学校グラウンドに 中型ヘリだけではなく 大型ヘリが降りることができたようです。

 

空挺団は発災直後の人命救出ができる部隊

   重機を持っていなさそうな空挺団に 何ができるのですか

   - 重機で道路を直すのではなく、倒壊した木造家屋の下敷きになっている人を救出する仕事です。

   阪神大震災の被災地で 発災当初の3日間に切実に求められたのが、まさに この仕事です。

  自衛隊の災害派遣について 2001年に検証取材した際に、第1空挺団が、倒壊家屋の下敷きに

   なっている人たちの救出のための資機材の装備を充実させていることを知りました。当時 入手した

   第1空挺団の資料によれば、チェンソー、エンジンカッター、レバーブロック、オイルジャッキなど

   の機材を 50セットずつそろえていました。

    着陸させなくても、ヘリからロープで降りられる リペリングの資材ももちろん持っていますし、

   何よりも大切なのは、とても厳しいことで知られるレンジャーの訓練に耐え抜いた経験のある隊員

   が たくさんいることです。選んだ隊員を 最初の3日間だけ入れて 3日経ったら引き揚げさせるとか、

   そういうメリハリのきいた派遣をすればいい、と思いました。

    第1空挺団のツイッターのアカウントを見ると、「 陸上自衛隊の精強部隊として、侵略・

   大規模震災などの国家の危機に際し もっとも困難かつ重要な場面に、迅速に空中機動し(中略)

   身を挺して あらゆる任務を果たすことが求められている部隊です 」とあるのが目に入りました

   ので、なおさら、そう思いました。

 

    阪神大震災で 第1空挺団の派遣はされなかったのでしょうか。自衛隊が 全国の部隊を一度に

投入できなかった原因は何ですか。

   ー 阪神大震災でも 第1空挺団は被災地に入っています。ただし、人命救助のためではなく、

   震災発生から何日もたった後に 給水だとか衛生だとかを支援するため、車両で入っています。

   もっとも厳しい訓練に耐え抜いて、かつ,ヘリでの移動に慣れていて、同じ 千葉県内のヘリコプター

 団と協働する機会が 最も多いはずの隊員たちが、震災発生当初の人命救助ではなく、後詰めに

   回されたのは 本当にもったいない、と感じました。

    阪神大震災の際の自衛隊の行動を検証してよくわかったのは、自衛隊の「隊区主義」の強さと

   弱さです。全国各地に点在する各部隊は、自分たちの持ち場で起きた災害に対しては 自分たちが

   責任をもって 災害派遣をやり遂げるという覚悟と責任感を持っていて、そのこと そのものは尊敬

   すべきことですし、ほとんどの災害は それで対応できるでしょうが、マグニチュード7級の直下型

   地震が 地表近くで起きたときに引き起こされるような規模の大きい災害では、時間との競争に

   なります。 兵庫県は 第1空挺団の隊区ではないけれども、1995年1月17日から20日まで3日間、

   被災地で 人手は多ければ多いほどよかった。 今回の能登半島地震は 阪神大震災の3倍近くの規模

   ですから、阪神に比べると、人口密度は低いものの 被災地がとても広くなるだろう、ということは

   最初から分かっているわけです。

 

   生存者を救出できる目安である72時間のうちに、あるいは、できることなら 生存率の高い48時間

   のうちに、生きて下敷きになっている 全ての人を救い出さなければならない、あの広い地域だけど、

   がれきの下で 息のある人は 一人残らず何としても救い出したい、と考えるべきです。

     ですから、その2日か3日の間は、「隊区」にこだわらず、拙速になってもいいから、活動地域

   が重なってもいいから、先を争うように部隊を入れるべきです。それが 阪神大震災の教訓です。

  「 大震災の場合においては『隊区主義』に拘泥することなく 」というのが、阪神大震災の際に

   近畿一円を隊区とする自衛隊の第3師団が得た教訓です。

 

   今回の能登地震でも「隊区主義」の弊害が出る可能性があると思ったのですか

   ー 東日本大震災は、あまりに 災害の規模が大きいことが最初から明らかだったからなのか、

   結果的に「隊区主義」の弊害はなかったようなので、今回も大丈夫だろうと思いましたが、

   他方、心配する気持ちもありました。 深夜になって、木原稔防衛大臣が「 今回は 中部方面隊が

   中心になります 」と言っているのを知って、心配が的中したというか、こりゃダメだ、と

   思いました。上級部隊の陸上総隊が中心となるべきです。

     今回の被災地を「隊区」として所管しているのは、中部方面隊です。 阪神大震災のときも

   中部方面隊が 災害派遣を行ったのですが、司令部は 兵庫県伊丹市にあります。その司令部が

   中部方面隊の全力を投入すると決心したとして、中部方面隊の主力部隊があるのは、愛知県や

   兵庫県、広島県です。そこから 陸路で部隊を送ることになる。後詰めとしては それもいいんです

   けど、今回の被災地は、広島県や兵庫県よりも、東部方面隊の「隊区」の 新潟県や長野県に

   より近い。だから 中部方面隊に加えて、最初の3日間だけでも、東部方面隊の比較的近い部隊を

   入れるべきだし、何よりも、中部方面隊や東部方面隊の上級部隊として 2018年に防衛大臣の

   直接の指揮下に創立された陸上総隊が その直轄部隊を出せばよかった。

     千葉県木更津市に第1ヘリコプター団があって、これも 陸上総隊の直轄部隊で、ヘリが数多く

   配置されています。同じ千葉県内の空挺団を乗せて 能登空港に行けばよかったのに、と感じます。

 

   これは 阪神大震災の教訓なんです。そう思って ツイートしました。「隊区」にこだわると、

   こういう発想にならない、というのは、阪神大震災の検証取材で よく知っていました。

   総理大臣や防衛大臣が 具体的に どの部隊を入れろと指示するのは無理だと言う人がいますが、

   陸上総隊に命令を出せるのは 防衛大臣だけです。そういう立場にいる人が 命令を出さなければ、

   自然と、「 今回は 中部方面隊が中心になります 」ということになります。陸上総隊や東部方面隊

   は給水支援だとかそのお手伝いをする、という枠組みになってしまいます。これは ほぼ自動的に

   そうなってしまいます。

   「 被災者の救命救助に全力で取り組め 」と抽象的に指示するだけでは、そのプロトコルは

   変わりません。中部方面隊は その全力で救命救助に取り組むでしょうが、そのほかの部隊は 一部を

   除いて 災害派遣ではなく 予定どおりの訓練を続けます。防衛大臣 もしくは総理大臣が ひとこと

  「 人命救助の活動については、中部方面隊だけに任せず、東部方面隊や陸上総隊からも 部隊を

   2日午前に入れろ 」と指示すればよかったのです。

 

   今回も 逐次投入したとする報道をみると、阪神大震災のときと 同じ過ちを繰り返してしまった

ということですか

   ― 能登半島地震が発生してから 72時間の間に、自衛隊は どういう態勢で対応したかを 防衛省の

   発表で見ると、地震発生の翌日の1月2日に 1,000人、航空機22機、3日に2000人、航空機33機、

   4日に4600人、航空機33機です。まさに 逐次投入です。航空機のうち 相当数は固定翼の飛行機

   でしょうから、実際に輸送にあたっているヘリは この数字より少ないはずです。

    木原稔防衛大臣が 1月5日の記者会見で、「 道路の復旧状況なども併せてみながら、かつ現地

   で受入れる態勢が整った段階の中で、人数を増やしていった 」と説明しました。この言葉を見た

   ときに、後先が 全く逆じゃないか、発想からして間違ってる、と感じました。 道路の復旧や

   受け入れ態勢の整備よりも、人命救助を先にするべきですから。

 

生き埋めになった人は一刻も早い救助を待っている

   阪神大震災の取材には どのように携わったのでしょうか。 自衛隊の災害派遣を取材することに

なったのはなぜですか。

   ―  阪神大震災が発生した1995年1月17日当時、当時は 朝日新聞の社会部員で 一番若かったので、

   何かあれば すぐに現場に派遣される立場でした。前の年の北海道東方沖地震のときも 夜中に会社

   のヘリで 羽田を出発し、空路で 道東に派遣されました。

    兵庫県南部地震が起きた 1月17日の午後、東京から伊丹空港経由で兵庫県西宮市に入りました。

   タクシーに乗ったのですが、大渋滞で なかなか動けず、途中から歩きました。その日から1週間

   ほど、主に 芦屋市や神戸市東灘区を うろうろしました。

 翌18日のことですが、芦屋市津知町で アパートの1階が つぶれている現場を見ました。2階の床

 を こじ開けて、下にいるかもしれない人を助け出そうとしている若い男性がいました。1階に

   住んでいる親子が出てこない、というので、2階に住んでいた その男性が 2階の床を「掘って」

   いました。消防の人もいないし, 自衛隊の人もいない。マスコミの人は 私だけ。そのとき その現場

   には 私とその男性の2人しかいませんでした。

    そのすぐ近くの東灘区深江北町では 鉄筋コンクリート造らしき 5階建てマンションの1階が

 押しつぶされて、1階は 20~80センチほどの隙間が残っただけになっていました。現場にいた

   行方不明者の家族だ という人の話によれば、前日、17日夕までは、その隙間の奥のほうから

  「 助けて 」と叫ぶ 女性の声が聞こえたそうです。18日時点で、ここでは 自衛隊の人たちが救助

   にあたっていました。

    見たままの状況を原稿にして、電話で本社に送稿しました。でも、そうした原稿が 紙面に載る

 ことは ほとんどありませんでした。そんな現場が おそらく何百もあったのでしょう。だから 紙幅

   をいくら広げても、生き埋め現場の一つひとつを くまなく報道することは 不可能です。

   私の記憶では、阪神大震災の現場で 他の記者やテレビクルーと会ったことは一度しかありません。

   それくらい、現場が たくさんあったのです。

   1週間ほどで 私は東京に戻ることになり、東京に着いた瞬間から、別の事件の取材に追われる

   ことになりました。阪神大震災の被災地で、いろいろな人に話を聞かせていただき、そういう状況

   を この目で見たのに、それを十分には 社会に還元できていない、という負い目を、東京に戻って

   強く感じました。見てしまった者、知ってしまった者としての責任を果たさなければならない、

   という思いが ずっと残っていました。

   その5年近く後、1999年11月に、大阪社会部に転勤することになりました。大阪の社会部長

 から やりたいことを尋ねられましたので、震災取材班を希望しました。朝日新聞の大阪本社に

   とって、1.17(阪神大震災)は、5.3(朝日新聞阪神支局事件)、8.6(広島原爆)と並ぶ

   重要テーマで、取材班が常設されていました。震災発生から 5年過ぎても 6年過ぎても、四六時中、

   検証紙面を特設したり、企画記事を連載したりしていました。2002年1月まで 2年強、私は 

   その一員でした。その際の検証の対象の1つに 自衛隊がありました。2001年にかなり力を入れて

   取材しました。

 

   自衛隊は阪神大震災の行動を どのように検証したのでしょうか。発災直後 3日間の行動を

どうすべきだったと総括したのでしょうか。

  - 2001年4月に、国の行政機関の情報公開に関する法律が 施行されました。 防衛省の

   行政文書ファイル管理簿を「震災」とか「災害派遣」とかのキーワードで検索して文書を特定し、

   さっそく その法律を使って、震災に関する資料の開示を防衛庁に請求しました。

    第1空挺団の災害派遣用資機材のリストは そのときに入手したものです。特に有用だったのは、

  「阪神・淡路大震災災害派遣行動史」というタイトルで、各級の司令部が、阪神大震災の際の

   自分たちの行動を総括するためにまとめた報告書です。受けた命令や出した命令の内容がそのまま

   付録に添付されていました。いつどのような命令が出されたのか、克明に分かります。

    陸上自衛隊の態勢に関するまとめがあって、資料によって 数字に食い違いがあるのですが、

   1月17日は 深夜の時点で3千人規模、18日と19日は 9千人規模の投入で、20日以降になって

   1万数千人規模と増えていました。

    失敗だったのは、被災地の外にある 中国地方の第13師団、東海・北陸地方の第10師団が

   ほぼ 3日間、被災地に入るのを許さなかったことです。それら 2個師団の主力が実際に被災地に

   入ったのは 20日早朝でした。これは遅すぎました。

   首都圏にある部隊の主力も動きませんでした。第1ヘリコプター団から輸送能力の高い 8機の

   大型ヘリが 大阪に増援されましたが、そのヘリが 首都圏から空挺団の隊員を輸送することは

   ありませんでした。

 

   現場にいた自衛隊のリーダー達は どのように思っていたのでしょうか。

   ー そうした資料を読み込んだ上で、当時の師団長や幕僚たちに話を聴いていきました。事実関係は

 資料にあるので、そのときの思考や感想を聞くのを中心にしました。

 第10師団の人たちは、1月17日の朝に報道に触れて以降、一刻も早く被災地で活動したくて

   仕方なかった。中部方面隊の司令部に「 行かせてくれ 」と催促したそうです。それなのに、

   20日未明まで足止めされた。「 隊区主義 」の弊害が原因です。

   今回の能登半島地震とは異なり、当時は 自衛隊の派遣が遅れたのではないか との自衛隊批判が

   噴出しました。今回も 若干の批判がありますが、それとは比べものにならないくらい、広範に

   批判が出てきました。

 

    そうした批判について、陸上自衛隊は、陸上幕僚監部の行動史のなかで、「 48時間を過ぎると

   救命率が急落することや(中略)死と隣り合わせの状況にいた住民の思いや被災者の心情が批判

   の背景になっていることを理解する必要があろう 」と振り返り、「 国民のニーズは 迅速な初動

   にある 」と総括しています。そして、「 3日以内に大きな隊力を投入して救出活動を開始する

   とともに、当初3日間は 夜間を徹してでも捜索活動を行うことが必要である 」とか、「 担任部隊

   の対処能力を超える場合は、上級部隊指揮官が 自ら指揮をとって 全般統制を実施することが必要

   である 」とかの教訓を抽出しています。

 

総理大臣の責務として災害時の自衛隊派遣を明文化した法規定にすべき

   阪神大震災の教訓が生かされていない。同じ失敗を繰り返さないためには どうすればよい

のでしょう。

   - 自衛隊法に 災害派遣の規定(自衛隊法第83条)がありまして、この第2項として、

   自衛隊は、知事の要請があり、かつ、「 事態やむを得ないと認める場合 」には、部隊を救援の

   ため派遣することができる、と定められています。「 派遣するものとする 」とか「 派遣しなけ

   ればならない 」ではなく、「 派遣することができる 」。不思議な言いぶりです。

                                                    自衛隊法 | e-Gov法令検索

                                                  第六章 自衛隊の行動第七十六条第八十六条

    多くの国民が 大地震発生の際には 自衛隊の災害派遣に期待しています。その災害派遣を

   やってもやらなくてもいいような規定にしていて いいのでしょうか。災害対策基本法では、

   国は、「 組織及び機能の全て 」を挙げて 防災に関し「 万全の措置 」を講ずる責務を有する、

   と定められています。それと矛盾しているように見えます。

                                                      災害対策基本法 | e-Gov法令検索

                 指定行政機関 : 防災情報のページ - 内閣府

                        (令和5年4月1日時点)

 

    国民の生命、自由、財産を守るのは 国家の基本的な責務です。これは 外国の軍隊から守ること

   だけではなくて 災害から守ることを含みます。そのために自衛隊は 国家の手足となって行動する。

   知事の要請を受けてではなく、内閣総理大臣、防衛大臣の責務として、災害時に自衛隊を動かす

   ことを明文化した法規定にすべきだと思います。

      2001年当時から 私はそう思っていますが、阪神大震災発生から30年目にあたる節目となる今年、

   能登半島地震の対応を検証するとともに この規定を改正するべきだと思います。

    そうじゃないと将来、大地震発生時に 政府の 上に立つ人次第で、自治体任せ、現地部隊任せ

   になってしまい、初動の態勢が過小となりかねません。災害対応は 自治体がやるべきもの、

   現地の部隊がやるべきものだ と 骨の髄まで染み込んで思っている人が多いのです。

   ふだんの災害は それでいいかもしれないけれども、大災害の場合は そうであってはいけない。

   頭の切り替えをするためにも 今年こそ 自衛隊法83条を改正したほうがいい、と思います。