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                                  久保田 哲(武蔵野学院大学教授)     10月10日

 

議会の中で「馬糞」を投げる

 「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄は、明治期の帝国議会について、こう語っている。 其頃 政治社会
では 暴行をする事が一種の流行となつて、…(中略)…末松謙澄君の議席に 傍聴席から馬糞を投げたり、
議員同士議場で殴り合をしたりナカナカ不穏であつた (『咢堂回顧録』)

 1890 (明23) 年11月、非西洋国で初めて 本格的に機能した近代的議会である帝国議会が、日本に

誕生した。世間は、「 国会祭り 」と称されるほどの大賑わいで、山車が引きまわされ、花火まで上がった

という。 まさに 国をあげての一大事業であった帝国議会の誕生は、日本全国で歓迎されたのである。  

 もっとも、いざ議会が開設されると、議会政治は 多くの混乱に見舞われた。

1892 (明25) 年の第2回衆議院総選挙の際、選挙干渉により 死者まで出たことは、よく知られている。

実は、こうした暴力の波は、議会内にも及んでいたのである。  それにしても、馬糞が投げられたとは、

なんとも穏やかではない事態である。これは 1890年から 91年まで、日本で 初めて開催された第一議会

の衆議院での出来事であった。『東京日日新聞』は、その時の議会の様子を「異臭紛々、人席に堪えず」

と報じている (1891年3月4日付)。 さすがに、馬糞が投げられた例は、これが唯一である。

 

ヤジられたら、殴り返す
  かたや、殴り合いの方は、それほど珍しいものではなかった。尾崎行雄は、その具体例として、盟友
犬養毅を紹介する。舌鋒の鋭かった犬養は、衆議院議員中村弥六がある採決を欠席したことに対し、
「オイ、幾ら取った」というヤジを飛ばした。中村が 政府からの賄賂をもらい採決を欠席した、という意味
である。  これに怒った中村は、議会内で犬養を殴りつけた。犬養は「許せ、悪かった」といいながら、
これに全く抵抗しなかったという(『近代快傑録』)。  
 
 明治期の議会での暴力沙汰は、「血気盛んな政治家たち」、というイメージを生むかもしれない。しかし、
暴力は、徐々にその色彩を変える。 大正期に入ると、政治家個人間の暴力から、集団的暴力へと変貌
していったのである。  
 1914 (大3) 年2月10日の衆議院本会議は、まさに乱闘議会の幕開けとなった。この日、シーメンス事件
を受けて、内閣弾劾決議案が上程された。シーメンス事件とは、軍艦などの購入に際して、ドイツのシーメンス社
や イギリスの ビッカース社から帝国海軍の将校に 多額の賄賂が送られていたことが明らかになった 一大
疑獄事件である。  
 時の総理大臣は、海軍出身の山本権兵衛であった。野党の立憲同志会や立憲国民党などは、こぞって
山本内閣に猛攻を仕掛けた。 議場では、拓務大臣の松田源治と同志会の黒須龍太郎による丁々発止
の論戦が展開されていた。興奮した黒須が 議長の大岡育造から退場を命じられたことが、暴力沙汰の
契機となった。 退場に応じない黒須を引っ張り出そうとする守衛たちと、黒須を守ろうとする同志会議員
たちが入り乱れ、一大乱闘が繰り広げられたのである。  
 その様子は、「 帽子は飛び、服は裂かれ、惨憺たる状態に陥り、議員のうちにも、頭に瘤を出す者が
できた 」と描写されている(「帝国議会乱闘史」)。 結局、静粛にすることを条件に、大岡議長が黒須の
退場命令を取り消したことで、事態は一応の収束をみた。  
 
 総理大臣も、暴力の被害者となった。1915 (大4) 年12月の衆議院本会議で、総理大臣の大隈重信
立憲政友会総裁である原敬に反論したところから事件が始まる。政友会の武藤金吉が壇上まで突進し、
大隈の左手を揺さぶった。 大隈は、テロにより 片足を失っていたから、危うく倒れかけたという。  
その後、与野党入り乱れた取っ組み合いとなった。 大隈は、守衛たちに護られながら、どうにか演説を
終えたのである。  
 本件は、さすがに 懲罰委員会に付され、1名の議員に2週間、2名に10日間、2名に1週間の出席停止
処分が下された。なお、この5名は、いずれも 野党政友会の議員であった。  政友会の側も、与党
立憲同志会の議員を懲罰事犯として訴えたものの、政友会が 先に仕掛けたこと、同志会に 大隈を護る
という大義名分があったことなどが影響して、これは否決された。
 
席にあった○○が「凶器」に…
 いまから遡ること 100年。1920 (正9) 年2月の衆議院本会議では、男子普通選挙をめぐって議論が
白熱し、ついに 議会内の道具が武器として使われる事態にまでなった。 男子普通選挙を求めて熱弁を
ふるう野党に業を煮やした与党立憲政友会の赤尾彦作が、自席の名札をもぎ取って、演壇に駆け上がっ
たのである。 当時の名札は、長さ約30cm、幅約10cmの角柱である。これで殴られればひとたまりもない
と、野党憲政会の三木武吉が 赤尾を猛然と追いかけ、名札を奪い取ろうとした。 その結果、与野党が
入り乱れ、「 モーニングの紳士、禿ゲ頭の老人、こんな人々が芋を洗ふやうに揉み合ふ光景は、極めて
グロテスクなものだつた 」といわれている(「帝国議会乱闘史」)。  
  結局、赤尾は 懲罰委員会にかけられ、けん責処分を受けた。もっとも、当の赤尾が 懲罰委員であった
というのは、なんとも笑えないオチである。  なお、その後、名札は取り外し可能なものから机に釘付けの
ものへと変えられ、現在に至る。  
 
  大正末期になると、議員の間で、暴力が半ば公然と語られるようになった。  1924 (大13) 年5月の
第15回衆議院総選挙で初当選した有馬頼寧は、次のような回想を残している。 議場に入る前に、控え室
で代議士会が開かれた。その際に 座長の山本悌二郎が、「 場合によつては 力を以て争え 」と発言した
という(『政界道中記』)。  有馬は、それは非常識ではないか と抗議したのだが、皆 興奮しているから
控えた方がいいと 友人からたしなめられた。  
  当時の議会内の座席は、政党ごとに分かれており、通路を挟んで 党が接していた。各政党は、乱闘が
はじまれば すぐ相手議員を取り押さえられるように、通路側に腕力の優れた議員を配置していたというの
だから、暴力を前提とした戦略を練っていたことになる。  
  こうした状況から、ヒーロー(?)も生まれた。 戦後に総理大臣に就任する鳩山一郎その人である。
柔道2段であったという鳩山は、先に紹介した大隈が小突かれた際の乱闘騒ぎで、敵対する議員を取って
は投げ、取っては投げ、という活躍振り(?)であった。  
鳩山はまた、「 場外乱闘 」も仕掛けた。 憲政会の鈴木富士彌の演説が気に食わず、院内の食堂で鈴木
に殴りかかったのである。 鈴木は、全治4日の怪我を負ったという。
 
「話し合い」の場で、殴り合ったワケ
   ここまで、議会内での暴力沙汰を紹介してきたが、実に枚挙にいとまがない。
いったい、なぜ こうした事態が生じたのであろうか。帝国議会の歴史を研究する村瀬信一は、次のように
考察する。  
  大正期に入り、民衆の政治参加のエネルギーが膨れ上がった。 政党や政治家たちは、これを無視でき
ないばかりか、民衆へのアピールの意味もあって暴力にまでいたった。そして、議場を混乱に陥れれば、
政権に打撃を与えられる。 総選挙の結果による政権交代が制度化されていない当時にあって、「 暴力の
行使を織り込んだ議会戦術は 効果的であると考えられた 」(『帝国議会-<戦前民主主義>の57年』)。  
  帝国議会の開設当初、西洋人は、日本という極東の島国が 議会政治を運用できるのか疑心暗鬼であ
った。日本の政治家たちも、そのような目を向けられていることを 十分に意識していた。条約改正という
大きな目標を達成するためにも、日本が 議会政治を行う近代国家であることを 欧米列強に知らしめる
必要がある。 だからこそ 賄賂や選挙干渉など 暗い一面がありながらも、憲法が停止されることなく、
議会政治は歩みを止めなかった。  
   こうして、幕末以降、帝国議会の開設を経て 民衆の政治意識は 徐々に高まった。むろん、これは 歓迎
すべきものである。しかし、負の側面もあった。  
  大正期に入ると、「 閥族打破・憲政擁護 」を訴える民衆運動が 第3次桂太郎内閣を総辞職させた
(大正政変)。 以後、選挙権の拡大などを目指す 憲政擁護運動が全国展開される。
他方で、民衆が 新聞社や警察などを襲う、暴動事件も相次いだ。 これに呼応するように、過激な言動に
走る政治家も一部に現れたのである。 その結果、議会内での暴力が、民衆の支持を受けるための手法
として位置づけられ、民衆も 一定程度 これに応えた。事実 三木武吉や鳩山一郎など、これまでに紹介
した武闘派政治家たちが、暴力的だからといって 有権者の支持を失っていないことは、その証左であろう。
 
「暴力議会」の先にあったもの

  当時を知る者の考察も紹介しよう。

  憲法学者の美濃部達吉は、大正期以降、議場での乱闘沙汰が増え、衆議院が 「醜戯院」、二大政党が

「二大暴力団」などと揶揄される状況を嘆く。 第一次世界大戦後、階級闘争が生まれ、「 一般の民心が

甚しく殺伐となり、旧来の伝統や儀礼や其の他総ての権威を尊重するの念が薄らいだこと 」が 議会の

暴力化を招いたという(「議会制度の危機」)。  

  このまま与野党双方が 自制と寛容を失った状況が続けば、政党間の争いは たちまち暴力の争いと

なってしまうであろう。美濃部は、議会内での暴力の横行が、議会政治の危機を招くと、警鐘を鳴らした

のである。 美濃部の予見のとおり、民衆へのアピールでもあった議会内の暴力は、議会の信頼を徐々に

失墜させた。 民衆による政党への不満は高まり、軍部の台頭を許すと、やがて 議会は無力化した。

   日本がアジア・太平洋戦争に向かった要因の1つには、議会の信頼が失墜したこともあったのである。

このように考えると、議会内の暴力を笑い話としてのみ受け取るわけにもいくまい。  武闘派政治家で

あった三木武吉や鳩山一郎も、議会の衰退から戦争へ、という道程を目の当たりにした。  彼らは、

戦時中に 軍部への抵抗を試みたが、もはや 後の祭りであった。戦後には、公職追放の憂き目にもあった。  

  こうした経験は、匹夫の勇の持ち主のようにも見えた彼らに、暴力の果てには 暗澹たる未来しか待た

ない ということを教えたのであろうか。 三木や鳩山は その後、戦後日本の議会政治・政党政治を支える

55年体制を作り上げたのである。  

 

  最後に、再び「 憲政の神様 」尾崎行雄に ご登場を願おう。 尾崎は、正義と道徳が 立憲政治を支える

と主張する。 ここで注意したいのは、正義と道徳は、政治家のみに求められているわけではない、という

ことである。 あくまで、「 国民全体 」の正義と道徳が「 武力金力を圧するに足るだけ強くなければ 」

ならない ―― 「憲政の神様」は、こう語るのである(『咢堂回顧録』)。  

  今日では、議会内での暴力は ほとんど見られなくなった。しかし、私たちの正義と道徳は いかほどで

あろうか。 正義と道徳を失えば、権力は 即座に暴力へと変容してしまうであろう。  100年前の議会の

暴力沙汰を一笑に付すばかりではなく、100年後の人々から一笑に付されぬよう、一市民として、まずは

己の襟を正さねばなるまい。